■東中関駅第1展示室

●名古屋駅へ撮影に出掛けた鉄道少年

自分で写真を撮り始めたのは小学校6年生の時です。自宅近くを走る列車だけでなく、もっと多くの列車が撮れるところへ行きたいと思うのは当然の欲求で、卒業後の春休みの1日、クラスメートのMk君と東京発大垣行(刈谷では1番電車)で名古屋駅へ向かいました。
 自宅近くで通過するのを眺めるだけだった憧れのブルートレイン「さくら」。食堂車で忙しそうに働くお姉さんたちを間近で見るのは初めてです。キハ81「くろしお」、581系「金星」、「しらさぎ」など、初めて撮る車両も多く、ずっと駅にいても飽きることがありませんでした。
 この時以来、たびたび名古屋駅やその周辺へ撮影に出掛けています。当展示室では駅名にもなった東海道線、中央線、関西線の思い出深い作品を紹介していきます。順番はおおよそ撮影時期が古いものから載せていきます。

(注) 拡大画像はJava Script を使用しています。セキュリティーの設定次第では正常に動作しないことがあります。

ヘッドマーク付の急行「比叡」
ヘッドマーク付の急行「比叡」。来たので撮ったという程度の写真が貴重なものとなりました。

小学校3年生の頃、急行「東海」にはヘッドマークが付いていたのを覚えています。1972年3月、山陽新幹線が岡山まで開業したときのダイヤ改正で急行「東海」は静岡止まりとなり、自宅近くを通らなくなりました。
 名古屋から西でしか見られない急行「比叡」もヘッドマークが付いており、撮りたい列車でした。次に掲げる「しらさぎ」と同じ日の撮影ですが、その後ヘッドマークの取り付けがなくなってしまいました。顔だけのスナップですが、貴重な1コマとなりました。

文字マークの特急「しらさぎ」
「新しい電車」の頃の485系(貫通型)「しらさぎ」

小6の頃、母、弟と名古屋へ行った帰り、電車を待っていて入ってきたのが特急「しらさぎ」でした。
 ボンネットではない「しらさぎ」を見たのはおそらくこの日が初めてで、あっ!と声を上げて到着番線に走りました。刈谷に来ない電車がいたら写真を撮ろうと、カメラを持っていたのは幸いでした。
 このクハ481、いかがでしょうか。艶があってまだ新しい電車という印象を受けますね。特急電車はこうでなくてはと思いますが、長年風雪にさらされ、晩年はベコベコの車体に厚化粧という印象が否めませんでした。

キハ91 急行「のりくら4号」
急行「のりくら4号」キハ916(名ナコ)

この日は朝から日没近くまでクラスメートのMk君と名古屋駅にいました。当時もあったホーム端のきしめん。何杯食べたでしょうか(笑)撮り終えたフイルムの取り出しに失敗して撮った写真が全滅という痛い目に遭ってしまいました。それでも、迎えに来て下さったM君のお父さんがフイルムを買って下さり、だいぶ取り戻すことができました。朝出て行って、夕方帰ってきたキハ91系の「のりくら」もその1コマです。
 屋根に大型のラジエターが載っているのが他の急行ディーゼルとは違うんだとMk君に説明したのも懐かしい思い出です。

積雪の日 キハ82「くろしお」
キハ82に置き換えられた頃の特急「くろしお5号」

1976年の冬休み、仲間と名古屋駅に撮影に行く約束をしていました。すると当日は思いがけない積雪に。次第に駅撮りでは飽き足らなくなって、この日は初めて関西線の沿線に行きました。
 雪のボンネット「くろしお」が撮れると期待していたのですが、来たのは・・・あれれ、両端ともキハ82でした。後年、これも貴重な記録にはなりましたが、当日は肩透かしを喰らった気がしました。

関西線 旧形客車の普通列車
DD51が牽く旧型客車もあった関西線の普通列車

この日は同級生のMr君が千葉へ引っ越すため、お別れ撮影会として午前中は近鉄の撮影をしました。その合間に撮ったのがこの写真です。当時、関西線の普通列車はキハ35などの一般型気動車のほか、DD51が牽く旧型客車もありました。まだ全国各地に旧型客車が残っていたため、それほど珍しいとは思わず、結果的にまともな写真はこの一コマしか残っていないのは残念です。
 ちなみに、この717号機は後年、特急「紀伊」への連結の際、機関士の飲酒運転で衝突事故を起こし、廃車になってしまいます。

ボンネット特急「くろしお5号」
ブルドッグ健在。キハ815(天ワカ)を先頭にした特急「くろしお5号」

前年(1976年)末にキハ82の「くろしお」を見て、ボンネット(キハ81)は廃車になったとばかり思っていたのですが、僅かな期待を抱いて八田へ向かいました。
 10:00前、踏切が閉じ、カーブを曲がってきたのは・・・。同行したMk君が「来た!ボンネット!」と叫んだことを今もよく覚えています。
 情報も乏しかった当時は思いがけない収穫に「やった!」と思うことがしばしばありましたが、近年はそんなこともほとんどなくなってしまいました。

中央線の混色103系
うぐいす色のまま走り始めたクハ103-88

77.3.25のMr君お別れ撮影会では、午後大曽根付近へ移動しました。中央線では72系を首都圏から転入する103系へ置き換えることになり、当日は既に運行が始まっていました。基本的にはスカイブルー塗装でしたが、一部にはうぐいす色のままのものも走っていました。
 東京や大阪と同じ電車が走り始め、名古屋も都会になっていくのだなと思ったものです。

中央線の80系
名古屋に到着した80系8連

先頭は運転台取り付け改造車、クハ85です。窓のピッチが広いのは「サロ」の格下げ車の証です。
 80系は主に中津川以遠で使われていましたが、名古屋まで来る運用もありました。撮影から40年後の2019年、313系ワンマン対応車も同様の使われ方をしていますが、基本ユニットが4両から2両へと半減していることになります。
 ホームのない側のドアが開いているのは、この時代ならではのことです。おじさん世代はご存知の方も多いことと思いますが、若い皆さんはなぜだかわかりますか?

EF5860が牽く臨時特急「金星52号」
EF5860が牽く臨時特急「金星52号」

今ならばホームが鈴なりになりそうな列車ですが、カメラを向けていたのは数名。その中に大阪から来たというおじさんがいて、「今日は60番が牽いて来まっせ」と教えてくれました。大阪で撮り、新幹線で追い抜いて来たのだそうです。とても陽気な方で印象深かったのでしょう。記憶に刻まれました。
 この年の5月末のお召予備指定時に施されたであろう銀の縁取りが辛うじて確認できます。御料車編成の回送列車は部活の試合と重なって撮り逃しましたが、せめてものリベンジの機会がもらえました。

金山の大カーブをゆく103系
金山の大カーブをゆく103系10両編成。奇跡的に編成が切れずに納まった。

この日は80系電車のさよなら運転があり、その前に通った列車を撮ったものです。このあとは受験生生活に入り、大学進学によって愛知を離れたため、中央線の定期列車で運行される103系(スカイブルー塗装)は実質この1コマしかありません。
 我が家にズームレンズが導入されて間もない頃で、使い慣れていませんでしたが、10両編成の最後尾が奇跡的に切れずに納まりました。

ユーロ色のEF6466+みやび
ユーロ色のEF6466との組み合わせが実現した「みやび」

2018年の入院中はおよそ100コマもの画像修復を進めました。今までなら諦めていたような画像、特に変色の度合いが不均質なものにも挑戦しました。
 その中から1986年に撮ったEF6466+「みやび」をご覧に入れます。余部鉄橋における転落事故で短命に終わった客車ですが、こんな組み合わせも実現していました。
 民営化後にはEF64の東海会社所属のものは3両となりましたが、国鉄時代の稲沢機関区には多数のEF64があり、「ユーロライナー」ですら一般色が牽くことが多いのが実状でした。
 この年に撮ったネガは洗浄不足と思われる汚れがひどく、修復にはかなりの労力を割いています。この写真も修復前はこんなでした。

伊勢鉄道向け新造車甲種輸送 new
既にユーロライナー用にヘッドマークステイが取り付けられていた

国鉄の分割民営化まであと1ヶ月少々になった頃、伊勢線を3セク転換する伊勢鉄道向けの軽快気動車「イセ1形」が栃木県の富士重工で製造され、甲種輸送で車庫となる玉垣に運ばれました。稲沢からの牽引機はDD51791号機が担当しました。同機は前年11月のダイヤ改正の頃からユーロ塗装機592号の後継機として、ユーロライナーを牽いていました。ヘッドマーク取り付け用のステイがあるのがわかります。このときはまだ原色でした。
 ユーロ色への塗替えがいつであったかはっきりした記憶がありませんが、出勤途中に名古屋駅で見かけて驚いたことは覚えています。
 塗り替え後の同機はこちらから

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