■最後の出場で茶色になった”ミト座”を追って -水戸線〜両毛線〜上越線-

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●スロ81系「ミト座」とは

 既に引退から20年以上が経過した車両ですので、説明から入りましょう。
 スロ81系は鋼体化改造のグリーン車、スロ62を改造したお座敷客車で、暖房用蒸気または電源を機関車に依存する点でまぎれもなく旧型客車に分類されます。(冷房電源は各車に積まれたディーゼル発電機から給電)品川区に配属されたものはスロ81系としては最後の1本で、既に他の編成の引退が数年後に迫る時期でもあった1980年に登場しました。
 1986年に品川区に12系の「江戸」が配属された後も廃車にはならず、水戸局への転属を果たし、引き続き活躍しました。スロ81系では唯一JRに引き継がれたものとなります。品川時代は所属標記の「南シナ」のシナとお座敷の「座」を組み合わせて「シナ座」と通称されていましたが、水戸局転属後は同様に「ミト座」と呼ばれました。「ふれあい」という愛称はありましたが、撮り鉄の間では「ミト座」のほうが通用しました。

●JR東日本の粋な計らい

 国鉄の分割民営化前後、各地にお座敷列車や欧風列車が整備されていきました。古い車を改造した「ミト座」は利用者の立場からは見劣りするものになっていました。そんななか、1989年4月に茶色を基調にグリーン車の帯を入れた姿で大宮工場を出場して驚かされました。最後の出場となるのはもはや明らかで、関係者の粋な計らいであったことは想像に難くありません。

●当時としては珍しく地元(居住地)で借りたレンタカー

 それでは撮影日記に移りましょう。表現は時代を遡らず、アップ時点(2018年6月)を基準にします。
 何ということはない日帰りの撮影行日記ですが、既に引退して久しい旧型客車のジョイフルトレイン、スロ81系「ミト座」の晩年の活躍をお楽しみいただければ幸いです。

 茶色になって出てきた「ミト座」が89.5.28に水戸線、両毛線、上越線を抜けて新潟方面へ向かう団臨が設定されていた。牽引機のバラエティーも期待できそうだ。撮影を通じて知り合いになったIさんに電話をしたてみた。

Iさん:「ええ、行きましょう。車は私が出しますから。」
 転勤後、車は実家に置いたままだった私にとってはありがたい話であった。電車移動では複数の牽引機を撮影するのはまず無理だったからである。
 ところが数日後、Iさんから電話があった。

Iさん:「すみません、仕事の関係で日曜日は出なくてはならなくなってしまったんです。」
私:「それは残念ですが、お仕事ならば仕方ないですね。では、またの機会にご一緒しましょう。」

 私と同様に地方出身者で車を持たないAYさんを誘ったところ、行きたいとの返事であった。レンタカーは私が手配することになった。
 しかし、ここで1つ問題があった。前日の5/27、学生時代の同期のKY君宅にお呼ばれされることになっていたのだ。KY君はこの年の3月に結婚したばかりの新婚。職場の女性を2名呼んで食事会をするので来ないかと誘ってくれた。当時はメロメロだったであろうKY君の幸せを分かち合ってほしいという気づかいに違いない。それを断るようなヤボなことはできまい。
 本来なら27日の閉店間際に借りればよいのだが、半日以上早く借りることになった。

●当日は5時前に出発

 食事会が楽しかったのは改めて書くまでもない。KY君は職場結婚で、奥さんも元同じ職場の方だ。同僚の方ともお話しし、KY君の職場での姿にも触れることができた。
 AYさんには寝るだけのつもりで遅く来てもらい、翌、28日は5時少し前に出発した。そして、7時前に最初の撮影地、新治−下館に到着した。
朝日を浴びて水戸線をゆくEF81+ミト座 水戸線は早朝、光線が真後ろになりそうな区間が多い。新治−下館を選んだのは、少しでもサイドに日が当たることを考えてのことであった。
 415系を撮ったり、現地にいらした横浜ナンバーの方と話をしていると時間になった。EF81が汚れているのが少し残念だ。

暖房電源もSGもいらない時期のせいか、EF65PFが牽いてきた
 次は両毛線内へ移動する。最初のポイントに選んだのは岩船−大平下の緩いカーブ。google mapで調べてみると、東友田踏切とわかった。両毛線では定番のポイントである。
 ここでは学生時代からお世話になっているOさんと会った。東京赴任間もない頃は撮影にご一緒させていただいたが、当方が費用の一部を負担しようとしてもいつも受け取っていただけない。記憶にはないが、「来るんだったら言ってくれればよかったのに。」と言って下さったかもしれない。レンタカーを借りたのはもう社会人なのだから甘えてはいけないという気持ちもあった。
 牽いてきたのはEF651015(田)。暖房が必要な時期ならばEF5889の出番となったであろうが、5月ではその必要はない。したがって、暖房電源もSGも持っていないEF65PFでも問題はないのである。
 期待のゴハチでなくてがっかりという方も少なからずいたはずだが、比較的角ばったデザインのEF65PFと旧型客車の組み合わせは個人的には決して悪くないと思っていた。

追い掛けに成功してPF牽引2回目
 国道50号線はよく流れていて、順調に走ることができる。信号が多かったり、車が多くて流れが悪いときはダイヤに余裕があっても追い掛け失敗ということもあるが、今日は無理をしなくてももう1回は大丈夫そうだ。
 岩宿駅の手前へ行ってみた。ここは3月に別の列車を撮影するために訪れており、撮影地としての予備知識があった。
 詳細なダイヤはわかっていなかったが、追い抜きに成功したようだ。首尾よくもう1度撮ることができた。

 列車は高崎まで行って折り返すため、新前橋−高崎を重複して走る。上越線内はEF641001号機の登板が期待されるが、今回のミト座追い掛けのメインと考えていたため、欲張らずに上越線の撮影地に移動することにした。AYさんも過激な追い掛けをしてまで回数を稼ぐことは好まなかった。
 実は記憶がないが、前橋の市街地を通る国道50号を避け、駒形付近で国道17号に右折してショートカットを図ったことであろう。
 あまり奥へ入ることはせず、敷島−津久田のインカーブへ行った。ここは複線区間の線間であり、厳密には許可が必要なのかも知れない。しかし、スペースは広く、線路横断も無用。無理なく撮影できるため、誰も気にせずに三脚を立てていた。ここに限らず、当時は今のようにウルサいことを言われることは少なく、多少のことは黙認されていた。
 ポールが外側にあるため一見単線区間のようで、個人的にはお気に入りのポイントであった。朝からよく晴れていたが、ここに着くころには曇り空になった。晴れると光線状態がよくないため、かえって好都合であった。茶色に統一された渋い編成
 セッティングをしていると、知り合い2名がやってきた。電車で来たという。名前は知らないが、撮影では時々顔を合わせる人たちである。
 カーブの先は樹木で見通しが悪い。こういう時は列車の接近に気を付けていないと思わぬ失敗をすることがある。別のポイントのことではあるが、友人とだべっていてメインディッシュを撮り逃した人を見かけたことがある。
 そんな失敗は許されないので、レリーズを手に耳を澄ます。
 モーターのうなりが聞こえてきた。音は次第に大きくなってくる。「来た!」期待通りEF641001である。茶色の機関車に茶色の客車。統一された渋い編成に思わずニンマリである。

●信越線へ移動して「サロンエクスプレス」を撮影

 このまま帰るにはまだ早い時間である。今日はミト座以外に「サロンエクスプレス東京」があり、信越線を上ってくる。ただし、雑誌に掲載された軽井沢の発車時間からするとそれほど余裕がなさそうである。知り合いが撮影地を知っているというので、車に乗って行ってもらうことにした。案内されたポイントは安中−群馬八幡の直線。高崎に近いポイントとしては最適だという。時間的にさらに奥へ入るのは危険であった。実際にカメラのセッティングが終わるとほどなくしてEF6253が牽く「サロンエクスプレス」がやってきた。EF6253(田)+サロンエクスプレス東京
 朝のEF81に始まり、EF65PF、EF641001、EF62と、4機種もの機関車が牽く団臨を撮ることができた。学生時代からこの日に至るまで、青春18きっぷなど安上がりな手段優先で来たため、レンタカーを借りるのは割高感が否めなかった。しかし、内容は投資に見合った満足できるものになったのではなかろうか。
 撮影はここまでにして帰途に就く。知り合いは途中駅まででよいというので、本庄駅まで送って行った。
 途中寄り道をすることなく浦和を目指す。昨夜は明らかな睡眠不足で、コックリしそうになることが何度かあった。
 上尾付近で夕立に遭った。もちろん後日のことであるが、EF641001の写真を見るといかにも大気不安定という感じの雲が写っている。撮影時に真っ暗に雷雨などということにならずよかったというところだろうか。
 18:30、無事帰着してトヨタレンタカー武蔵浦和営業所に返車した。

●あとがき

 古いカラーネガのデジタル化を進めていますが、取り込みに時間をかけるのが惜しいような気が進まないコマと、楽しみなコマに分かれます。今回ご紹介した写真は一応後者に入るでしょうか。
 自信をもってご覧いただけるというほどの力作でもなんでもない水準ではありますが、この日を振り返ることを通じて初心者時代の感動、ハングリーさを忘れてしまっていたことに気づかされました。それは・・・。
 当時の撮影日記に基づいて適宜追記等を行いました。しかしながら、朝、自宅を出てから水戸線の撮影地までどんな道を走ったのか。さらにはEF62+「サロンエクスプレス」に関する部分については全く思い出すことができません。知人2人とは誰なのか。群馬八幡の撮影地、本庄駅で知人を降ろしたこと。不思議なくらいに何も覚えていません。前日の食事会にKY君が呼んだ職場の女性2名は初対面でしたが、こんな感じの方というくらいは思い出せるのに・・・。
 記録ノートを読んでいて、「あれっ?こんなの撮ったんだっけ。」撮影済みのはずの1コマもデータの記載がありません。たまたま記録ノートから漏れてしまっている1本をスキャンしていて、それらしい1コマを偶然見つけました。写真も残っていないという事態は避けられました。
 まだ初心者であった中学生の頃。写真1枚1枚について撮影日、撮影車両の番号など、そこそこ頭に入っていました。撮影に成功して「やった!」と思った感動もありました。もちろん印象に残らず、撮ったことを忘れていたコマもありますが、1列車に関連したできごとをそっくり思い出せないのはショックでもありました。
 1989年当時、撮影対象はいくらでもあり、今では考えられないほどの密度で撮影に出掛けていました。非鉄のお付き合いもないがしろにはできず、時には疲れがたまって体調を崩したこともありました。あれもこれもと欲張っていたことは否めません。
 しかし、結局初心者の頃のような濃さはなく、わくわく感も薄まったことで記憶から抜け落ちるということを引き起こしているのかも知れません。
 人それぞれなので、自分自身のこととお断りしたうえですが、やみくもにバシバシ撮るのは自分の撮影スタイルではない。1コマ1コマを大切に撮りたいものだと改めて感じます。


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