1984年、雪の磐越西線と日中線  -訪問20周年-

2004.3.8UP

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21才の私(1984.2.29 熱塩にて)大学3年生は後期の期末試験が1月中には終り、まとまったアルバイトをすることができたため、学生時代では最も懐が豊かな時期でした。この機会にカメラを新調し、サロンエクスプレス東京が入線する磐越西線と、3月末日限りでの廃線が決まった日中線を訪問しました。

 両線の訪問から早くも20年が経過しました。お見苦しい画像もありますが、当たり前のように走っていた旧型客車の旅や国鉄色の車両たちの活躍、1日3往復のみの運行で最後まで客車列車で運転されていた日中線を偲ぶ一助となれば幸いです。(2004.3.8)

●2.28、急行「まつしま1号」で出発

 1984.2.28の朝、赤羽駅で福島・会津磐梯ミニ周遊券を購入。学割で5200円、既に大宮から新幹線が開業して本数が減ってはいるが、在来線の急行に乗れ、ミニにしては周遊区間が広いお得な周遊券である。旅の始まりはやはり上野駅からにしよう。一旦上野駅へ出て、急行「まつしま1号」のモハ454-15に落ち着いた。

 この日に出掛けるきっかけになった磐越西線乗り入れの「サロンエクスプレス東京」は鉄道ファン誌でも運転予定が掲載され、東北線の交流区間で撮影したあと、急行で追い掛ければ猪苗代へ先行でき、ED75とED77の2種類の牽引機を撮影できるおいしいダイヤかと思われたが、その後入手したダイヤでは追い掛け不能となってしまっていた。

 1983〜1984年の冬、関東地方ではとにかく雪がよく降り、都内では雪が消えることはないほどであった。北へ進むにつれて車窓には残雪が目立つようになってきた。そして、交流区間に入る前には雪が降り出した。

●雪害で足止め

 郡山に着き、快速「ばんだい」に乗り換えるが、おやっと思った。電車がまだ入線していないのである。アナウンスによれば、磐越西線の上り客車列車が中山宿で吹き溜まりに突っ込んで立ち往生しているという。サロンエクスプレスは後を追い掛けてきているはずだ。時間が経つにつれて今日のメインディッシュである列車が撮れなくなってしまうのではないかと焦った。ダイヤが乱れれば郡山で打ち切りになってしまうことも考えられなくはない。ホームでは撮影でたびたび見掛ける方お二人と一緒になった。やはりサロンエクスプレスを目的に来られたという。

 やがてED77に牽かれた客車列車が到着した。ED77は雪だるま状態で、沿線は相当な降雪になっているようだ。機関車を解放する作業員の方によれば、これが上りの始発列車で、やっとのことで郡山にたどりついたのだそうだ。

 快速「ばんだい」は1時間半遅れて発車。郡山では日が出ていたが、中山宿を過ぎると雪になった。お互いに顔見知りの3人でどこで撮影するかが話題になった。

「磐越西線ならば更科(信号場)へ行きたいけど、無理ですかね。」
「いや、これだけ積もっていたんじゃとてもたどり着けないよ。」
「吹雪いてED77だということがわからないんじゃ意味ないからね。」

 大妥協ではあるが、猪苗代駅で下車。手前の陸橋へ3人で向うことにした。

●陸橋の上で吹雪に耐えて

455系快速「ばんだい」
説明は写真をクリック
ED778+サロンエクスプレス
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最初はバックの山が見えていたが、次第に風雪が強くなり、周りは真っ白になった。どれくらい遅れて来るのかが心配であったが、所定からわずか約10分後、ヘッドライトが見えてきた。雪で後ろがよく見えないが、お目当てのサロンエクスプレスのようだ。吹雪いて後ろの方までよく見えないのは残念であったが、何とか撮影することができた。風雪の中、長時間陸橋上に立ち続けるのは堪えたが、午前中の遅れのために待ち時間がかなり短縮されたのは確かである。

 撮影を終えて駅へ戻り、この天候では長時間の撮影は無理と判断し、乗車して時間をつぶすことにした。上り快速「ばんだい」(クモハ455-2)で磐梯熱海へ。折り返し会津若松行きの客車列車に乗った。この列車には既に残存3両となっていたスハフ32が連結されており、それに乗ったのは言うまでもない。(スハフ322119に乗車。3両の内の1両と思われるスハフ322157は現在も高崎運転所に健在)

 学校が終る時間になって、車内には高校生の姿も目立つ。女子高生同士の会話が耳に入ってくる。
   「○○ちゃん、えがったなぁ。」(「ち」にアクセント)
なんともほのぼのとした暖かい雰囲気に東北へ来たことを実感する。
 それから、地元の人たちは列車が完全に停まってから席を立ち、少しも慌てることなく扉の方へ向って歩き出す。首都圏の通勤電車では考えられない時間スケールの違いを感じる。

 会津若松に着いて駅前のフジグランドホテルにチェックインした。手頃な値段で学生でも利用しやすいのはありがたい。翌日は日中線の1番列車に乗車するため、フロントで「5時過ぎにはチェックアウトしたいのですが。」と尋ねると、「構いませんよ。」と答が返ってきた。早朝ではホテルから出してもらえなかったらどうしようと内心少々不安を感じていたのであった。
 部屋に入るとお茶セットと共にお茶菓子が付いていた。梅の甘酸っぱさがほどよいあん入りの餅で、これが気に入って文句なしにおみやげ候補にした。

2.29、日中線一番列車には女性ファンも

 翌朝は5時に起床。25分頃エレベーターに乗ると、先客の女性が「日中線ですか?」と尋ねてきた。カメラバックを持った私を見てそう思ったのであろう。噂には聞いていたが、女性の鉄道ファンは初めてだったので驚いた。安くてよいホテルだったこと、お茶菓子がおいしかったことなどを話をしながら駅へ向った。

説明は写真をクリック ホームへ出るとDE10がSGを上げて発車を待っていた。5:46発の日中線621列車である。これが1974年までであったならC11が牽いていたわけで、当時小6だった私は1日たった3往復、全列車SLという路線に強い憧れをいだいていた。同年の夏休みに会津地方への旅行の計画があり、実際に日中線のSL列車に乗れないものかと時刻表を見ながら思案していたのであった。結局、やむを得ない理由で旅行が中止になったことは残念でならなかったが、こうして今、DL牽引ながらも日中線の客車列車が目の前に停まっているのである。

 SL廃止から10年を経て、今度は線路自体がなくなろうとしている。廃線まで残すところ1ヶ月となり、車内には多くのファンがいるかと思ったが、たったの4人であった。主に同世代の方が中心で、女性も交えて話しが盛り上がった。列車はゆっくりと発車。まだ外は真っ暗であったが、次第に明るくなってきた。車窓を味わいたいところであるが、一面雪野原で変化に乏しいのは残念なような気がする。

 説明は写真をクリック
 熱塩に着いて機回しが始まった。「皆んな、入れ換えが終るまで下へ降りないでね。」「はい、わかりました。」誘導は車掌さんの仕事である。1番列車のためレールがすっぽりと雪に埋まっていて、脱線しはしないかと見ていて不安になる。駅舎は荒れていて、まるで幽霊屋敷のようだ。屋根勾配が急な特徴的な駅舎を入れた定番のアングルで撮影したあとは、折り返し620列車を撮影するため、駅から少し歩いたところにあるコンクリート橋へ向った。


●諸河さんと一緒に

説明は写真をクリック 先に構えられているのは鉄道写真家、諸河さんのようであった。先に「おはようございます。」と挨拶をされた。「諸河さんですか。」と尋ねると、うんとうなずかれ、こちらも「おはようございます。」と返した。諸河さんもサロンエクスプレスが磐越西線に入って来る機会に来訪されたという。
 発車の汽笛が鳴り、間もなく620列車がやってきた。朝の通勤通学列車で、最も乗車率が高い列車のはずだが、熱塩発車の時点ではまだ空いているようであった。諸河さんは自動車で早々に去って行かれた。

 日中走らぬ日中線と揶揄されるように、次の上り列車は17時代までないので、バスに乗るしかない。熱塩から乗ったバスは空いていた。雪道であまりスピードが出ず、鉄道よりもだいぶ時間がかかりそうだ。しかも運賃は520円と、鉄道(180円)の3倍だ。利用者が少なく、とても鉄道を維持できる条件でないのはわかるが、たとえ1日3往復の運転であっても廃線になれば利用客にしてみれば一気に負担増になってしまうのは気の毒である。

 予想よりも時間がかかってしまい、ホームへ出たのは1224列車に乗れるぎりぎりの時間。DD51603+50系4連+旧型客車2連(回送車)+DD51505というちょっと変わった編成であった。これに乗り遅れると次のポイントで撮影できる列車が大幅に減ってしまうので肝を冷やした。
 車中では早朝、ホテルのエレベーターで会った女性、Sさんと再び一緒になった。日中線の620列車でそのまま折り返して来たという。お話しを続けていて同じ年であることがわかった。てっきり私のほうが年下だと思われたそうだが、実年齢よりも若く見られることはしばしばであった。

当たった「明日の運勢」

旧国鉄標準色のキハ52127
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50系を牽くED77901
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 会津若松に到着して機関車交換のためしばらく停車する。DD51+旧型客車が引き揚げていった。旧塗装のキハ52を見つけて撮影し、戻って来るとED77を連結すところであった。近づいて来たのは試作車ED931の量産化改造車ED77901号機で、慌てて反対側のホームへ渡って撮影する。
 そして進行方向が反対になって発車。磐梯町まで乗車する。

 ここは快速が停車するので帰りの列車の選択幅が広くなるメリットがある。次の翁島までの間は駅間が長く、間に更科信号場がある。この付近で線路はS字カーブを描き、角度によっては磐梯山をバックに撮影できる地点もあるなど、好撮影ポイントが点在する区間である。

 今日も断続的に雪が降り続き、磐梯山は望むべくもないが、撮影記録ノートに更科の名を残したいと、更科方向へ足を進めた。撮影地の知識はなかったが、はっきり覚えていないながらも、この旅行中に会った同好の方からのアドバイスを聞いてのことだったと思う。


説明は写真をクリック 30分くらい歩いたところの踏切は目立った障害物がなく、架線ポールもカーブの外側で、まずまずの条件であった。下り列車の撮影もなんとか可能なため、ここで撮ることにした。編成の後ろまですっきり入るのであるが、各列車とも雪煙を巻き上げながらやってくるので後方が隠れてしまう。それでも磐越西線ならではのED77を始め、キハ58系の急行、485系特急「あいづ」、455系などそこそこの種類があって楽しめる。

 ダイヤを見ながら次は何時頃だなとめぼしを付けるが、予想外の時間に警報機が鳴り出した。「あれれ、何が来るんだろう。」遠くに青い車体が見えた。「えっ、キヤ191!?」思わぬ珍客の出現に緊張が一気に高まる。フイルムの巻き上げ、露出、ピントを改めて確認して無事に撮影できた。電気信号検測試験車は年に数回の運転なので偶然出会えるとはなんともラッキーである。
 実は前夜、ホテルでテレビを見ていて、天気予報と共に「明日の運勢」が出ていたが、11月生まれは「旅先で思わぬ拾い物をする。」となっていた。テレビの運勢占いが見事に当たったのである。


思いがけず現れたキヤ191系
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ED77重連が牽く貨物列車
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 撮影を切り上げて会津若松へ戻ることにした。電車の待ち時間にキヤの列車番号を聞いたら回9222Dとのことであった。小さい駅にしては何人もの駅員さんがいらっしゃるようだ。会津若松では食事だけして夕方の日中線を撮影することとする。観光地へ来てもどこにも立ち寄らず、ついつい撮影オンリーになってしまうのは毎度のことであった。

●再び日中線へ

説明は写真をクリックキハ45に乗って喜多方へ出て、ここからバスで上三宮へ向うことにした。会津村松寄りに鉄橋があり、日中線では有名な撮影ポイントであった。雪が深くなければもっと選択肢は広いのであるが、足場が悪いこの時期、致し方ないところであった。鉄橋に近い檀別という停留所で下車した。623列車の10分くらい前に雪が降り出したが、大粒な雪で、少々降り過ぎだっただろうか。


43系では既に珍しかった茶色のスハ432163 駅へ戻ると同好の方がいらした。今朝もお目にかかった方である。写真ではなく、8mmフィルムを撮影されていた。列車がない時間帯はどうされていたのかと尋ねると、「日中線沿線をうろついていました。そうしたら思いがけずモーターカーのラッセル車がやってきて、雪かきをするところが撮れましてね・・・。」と喜んでおられた。

 折り返してきた624列車で喜多方へ戻る。機関車は朝と同じDE101198である。客車は喜多方寄りからスハ432163+オハフ332054の編成。スハ43は43系客車では今時珍しいニス塗り茶色塗装の車であった。喜多方でDD51681が牽く232レに乗り換え、会津若松へ戻った。

 会津若松から10分後の2244レに乗り継ぐこともできたが、帰りの列車、上り「津軽」までの待ち時間が長くなるだけなので早く行っても無意味。ここで夕食とする。上三宮からご一緒した同好の方とはずっとお話をしながら来たが、ここでお別れした。楽しいひとときだっただけに名残惜しかった。


出発合図を聞きながら郡山へ

そして2246レで会津若松を後にする。牽引は再びED77901。因みにこの列車、232レで到着した編成を使用しているようだ。旧型客車にはいろいろな種類があり、編成中で最も価値のある車両を選んで乗るのが楽しみである。この列車では最後尾のオハフ613054を選んだ。
 最後部後ろ寄りでは車掌さんが機関士さんに行う出発合図の無線交信がよく聞こえる。これを聞くことを特に意識していたわけではないが、客車列車ならではの交信を間近で聞いたのは初めてのことであった。

(車掌)上り2246列車の機関士さん、こちら上り2246列車、車掌です。上り2246列車の機関士さんどーぞ。
(無線から応答が返って来る。)
(機関士)こちら上り2246列車、機関士です。どーぞ。
(車掌)上り2246列車発車。
「ピーーーッ。」

 冷えきった夜空にED77の汽笛が鳴り響きく。「ガシャン」という軽い衝撃のあと、音が雪に吸収されてしまうのか、極めて静かに列車は加速し、ホームを離れてゆく。後部のデッキに立つと、雪がテールランプにほんのりと照らされているのがわかり、先頭部からはMT52モーターのうなり音がかすかに聞こえてくる。

 会津若松を出てから郡山までたっぷり1時間半、夜汽車の旅を満喫させてもらった。そして、21:18、終点郡山駅へ滑り込んだ。

●今夜の”宿を迎えに”福島へ

写真の解説は写真をクリック 2246列車は到着後、荷物車を切り離し、機関車の前後を付け替えた。バルブ撮影中にふと機関車の方を見ると作業員の方が歩いている。一応もう1枚撮り直しておいた。(仕上がった写真には動いている人は全く写っていませんでした。)

 今夜は上り急行「津軽」で帰るが、郡山から乗ったのでは待ち時間があまりに長く、深夜帯の乗車を強いられるため、「あけぼの」を牽くEF71を撮りながら列車待ちができる福島へ向った。福島へ向う列車は何本もあるが、待ち時間が短くて済むようにと、最も所要時間が長い141列車を選んだ。


●お宿は荷物置き場

福島到着は23:18。上り急行「津軽」の発車(1:55)まで2時間半近くある。それまでに発着する長距離列車があって、ホームの待合室には暖房が入っているのはありがたい。ひたすら待つだけでなく、特急「あけぼの1号」や自分が乗る急行「津軽」の撮影ができる。これらは奥羽本線勾配区間ならではのEF71やED78が重連で牽引するのが魅力である。

 待っている人もそれらしい格好の人が中心だ。しかし、深夜の駅に付き物なのは酔っ払い。駅舎の待合室で寝ていたところを施錠のために追い出されたらしく、ひとりでぶつぶつと不平をつぶやいている。ビジネスマン風の男性に一喝されて静かになったが、ここで始発列車を待つのは確かにつらかろう。

 ここで今回の旅行中何度も会った人(上三宮で会った人とは別の人)に再び会った。

「おやっ、あなたも津軽ですか。」
「郡山でずっと待つのはいやだし、周遊券がここまであるから寝る時間を増やそうと思って・・・。」
「はははは、同じようなこと考えてるなぁ・・・。」

説明は写真をクリック やっとのことで急行「津軽」が到着した。EF71が切り離されないうちに急いで撮影する。そして、周遊券で乗車できる自由席車に乗り込んだ。しかし、よく乗っていて空席を見つけることができない。各車とも同じような状況で着席を断念。荷物置き場へ腰を降ろした。

 ただでさえ環境が変わると眠れない私がこのような状況で眠れるはずはなく、ただ時間が過ぎるのを待つのみであった。黒磯では牽引機がED75からEF58に交替する。2月のダイヤ改正で消えると思われた急行列車の運用が残ったのである。EF58に変ってからもジョイント音から目一杯飛ばしていることがわかる。古くなってもさすがは急客機である。

 いくら急行料金が免除になるといっても、荷物置き場で大宮まで乗車するのはさすがにつらい。そこで、宇都宮で522Mに乗り換えることにした。この電車は165系で、グリーン車が普通車扱いで乗車できる、いわゆる解放グリーン付きなのである。

 福島から一緒に乗った人は眠れたようだ。急な思いつきのため、挨拶もせずに降りてしまうのは後ろめたい思いであったが、起すのもためらわれた。宇都宮で下車してEF58の機関車番号を確認し、(144号機)522Mのサロ165-15に乗り換えた。荷物置き場で足を冷やしてしまったせいか、結局一睡もできなかったが、ゆったりと座れたのでこの判断は正解であった。

 大宮で京浜東北線の103系に乗り換えた。周遊券を手元に残したかったため、東京都区内に入る手前の川口で途中下車し、赤羽までの切符を買い直した。再び京浜東北線の103系に乗車し、荒川を渡ると東京都である。僅か2日間ではあったが、とても充実した撮影旅行であった。サラリーマンが出勤を急ぐ中、私はアパートへと向った。


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