■栃木県植樹祭お召列車 -最初で最後、青いEF58が本務機に-
22.5.22公開
●初めて撮影した御料車1号編成のお召列車
大学に進学して鉄道研究会に入会。メンバーの中にお召列車の計画を知っている人がいました。入学した1981年は御料車1号編成の使用予定はなし。しかし、1982年の5月には栃木県で植樹祭があり、1号編成が使われる見込みであることを、相当早い時期に聞いていました。
1号編成のお召列車については、1979年に愛知県で植樹祭が行われ、飯田線、東海道線のほか、岡多線にも入線して話題となりました。しかし、たいへん残念なことに、部活の対外試合と2日とも重なってしまって撮りに行けず。(それでも、偶然ながら回送列車が一度撮れました。)
やむなく撮り逃してしまったという悔しさもあって、栃木県植樹祭を楽しみにしていました。
(注) 拡大画像はJava Scriptを使用しています。プログラムの起動のため、最初の表示は少し時間がかかることがあります。
●青いEF58が本務機に起用
いつの頃であったかは記憶がありませんが、鉄研のミーティングで列車は日光線に乗り入れ、本務機としてEF58172号機が整備されているという話を聞きました。東北本線(下り方向)から日光線へ入るには、宇都宮で進行方向が反対になります。国旗の付替えなどで列車を長時間停めるわけには行かなかったとみられ、2両のEF58のリレーが行われることになりました。
当時、EF58がお召列車を牽くときは61号機以外が充当されることはありませんでした。関東地方では予備機すら用意されることはなく、61号機には絶大なる信頼が寄せられていたほか、同機を充当することにプライドあるように感じられました。
過去に米原機関区で77号機が予備機として整備されたのは記憶がありますが、青いEF58が本務機を務めたことはこれまでにはありませんでした。
●61号機の列車も見逃せない
鉄研では青いEF58のお召列車の話題で持ち切りとなり、先輩たちは日光線内での撮影に集中する意向でした。しかし、私は1979年に撮れなかったということもあって、初めてとなる61号機のお召列車を見逃すことはできません。地図を見ながら思案したところ、宇都宮駅からおよそ2kmの間は日光線と東北線が並走していることがわかりました。この間ならば両方を撮ることができるのではないかと考えました。
●往路の運転当日
東北本線と日光線の分岐点は宇都宮駅からかなりの距離があります。最寄り駅は東武宇都宮線の南宇都宮になります。当時、国鉄は相次ぐ値上げで割高感が強かったこともあって、往路の移動には全区間東武鉄道を利用しました。学生アパートから最寄りの東武野田線大和田駅までの徒歩を考えると、歩く距離を減らすメリットはなく、しかも、明らかに遠回りです。費用の節約に重きを置いたようです。
現地に到着すると、撮影者は数名という状況で、警備の警察官と世間話をしながら列車を待ちました。警察官は写真がご趣味とのことで、「ネガプリントはお金がかかるでしょう。私はネガをやめてポジを使っているよ。」とおっしゃられたのを覚えています。ちなみに、私も翌月に初めてポジフィルムを使っています。これだけではありませんが、後押しをされたできごとの1つと言えそうです。
EF5861号機のお召列車原宿-宇都宮間の牽引機はEF5861です。この日の天気予報は晴れ、大気不安定で時々雨でした。
朝からよく晴れており、きれいな写真が撮れることを期待していました。しかし、通過時間が近づくに連れて雲行きが怪しくなり、一時は雨が降りました。通過時はいくらか回復したものの、ASA100のフィルムでは厳しい露出でした。
露出不足のネガはデジタル化でだいぶ救えました。
国旗を振ってお見送りEF5861号機を撮影後、日光線側へ移動しました。
宇都宮で反対側に連結された172号機のお召列車が近づいて来ます。近くの会社にお勤めの方々が国旗を手に見送りをされました。東北本線と日光線が分かれるあたりには20人くらいの撮影者がいました。
青いEF58172号機のお召列車寒気による雲が去り、直前に晴れました。EF5861とEF58172の両方をと、この付近に来た方はそれほど多くはありませんでした。一番人気の下野大沢‐今市間では徹夜だったという場所取り合戦とは無縁でした。「ラジオ体操第一」になってしまった国旗など、残念な要素はありますが、よく撮ったぞ、当時の私。
無事に172号機を撮影した後、回送列車を日光線内で撮影するため、一緒に撮影した同好の方数名と鶴田駅へ向かいました。途中には富士重工の工場がありました。同社は気動車を中心とした鉄道車両メーカーというイメージがありますが、新製以外にも103系の冷房化改造、廃車になる客車の解体も行っていました。
富士重工で新造されたキハ183北海道向けのキハ183系もここで製造されていました。本州では見られない形式を思いがけず見ることができました。まだ青函トンネルは工事中で、東北本線を機関車牽引で回送され、青函連絡船に積み込まれたのでしょう。
レールバス LEカー工場内にはこんな車両も留置されていました。改めて調べたところ、鉄道ファン誌255号(1982年7月号)に紹介記事が掲載されています。その記事を読んだのはこの写真を撮った後だったはずです。予備知識がないため、驚いたことでしょう。
名鉄や樽見鉄道で当車が礎になったと思われるLEカーが導入されたのはおよそ2年後のことです。
日光線の御料車編成回送列車ご一緒した同好の方たちは下野大沢へ行くと言われたため、撮影地の知識がない私も同行することにしました。しかし、沿線は杉林が続いて開けた場所がありません。途中で断念して駅まで戻りました。
定期列車の交換はないはずでしたが、小学生を乗せた臨時電車が到着。手前を塞がれたため、慌てて駅の外へ出ました。
一緒だった方のうちのお一人が「あ〜あ」という顔をされていましたが、私も心境は同じでした。
宇都宮運転所で公開沿線や電車の車内でお会いした方から聞いたのだと思いますが、宇都宮運転所で172号機を公開していただけるとのことで、他の方たちに付いて行きました。ピカピカの172号機に歓声が上がりました。
職員さんも記念撮影職員の方々も交代で記念撮影をされていました。関東地方の機関区、運転所ではEF5861号機の予備機は用意しないのが慣例でした。EF58形のお召本務機を出したことは、運転所の皆様にとって名誉であったことでしょう。
1コマ目は広角の28mmレンズを使用して撮ったようです。公開が始まると皆が機関車に近づいてしまい、正直なところ、これでは撮りづらい人もいると思いました。
そんなとき、一人の方が声を上げられました。
「皆さん、宇都宮運転所さんのご厚意でこのように撮らせていただけるのです。もう少し下がって落ち着いて撮れるようにしませんか。」
賛意を表される方など、「そうだそうだ」という空気になったのを感じました。マナーを守りながら皆が譲り合って撮るのだという姿勢を運転所の職員の皆様にアピールすることにもつながったと思います。
●5月23日の植樹祭へのご臨席に伴うお召列車とお帰りのお召電車
82.5.23は宇都宮から矢板までの運転で、西那須野まで回送されて折り返し、出入庫線がある大崎まで回送されました。運転区間が短かった(終着駅まで30分)ことや、日曜日の運転となったことから、多くのファンが集まりました。
植樹祭の終了後、両陛下は那須の御用邸に入られ、5.27に帰京されました。
大勢のファンの熱い視線を浴びて5.23は宇都宮から矢板までと、比較的短距離の運転となりました。東京都でも神奈川県に近いところに住んでいたサークルの先輩には狭いアパートで前泊してもらい、初電で蒲須坂へ向かいました。撮影地の知識がない私は付いていくだけでした。
このポイントはカメラマンの集団が分散しており、アングルの決め方には意外と制約がありました。列車が遠過ぎたり、写し込みたくないものが入ってしまったりと、撮影技量はまだまだ発展途上でした。
大任を果たして大崎へ回送お召列車としての運転は矢板まで。その後は西那須野へ回送されて機関車を付替え。折り返し大崎へと回送されました。
わざわざ遠くまで行ったのに、私はすぐに東大宮へ戻りました。その理由は、1号編成の通過音を録音したいという目的があったからのようです。1号編成は車軸が削正されたばかりだったようで、独特の音を発していました。当時のメモにはリコーダーを一定音で吹き続けるような音とあります。また、3軸ボギーの「タタタ〜ン」というジョイント音も魅力的でした。
またテープを探してみましょう。
お帰りは183系+クロ157栃木県には那須御用邸があります。植樹祭のご公務を終えられた両陛下は5.27にご帰京されるまで、御用邸で過ごされました。1号編成が使用されなかったのは、御用邸に入られた後は公式行事ではなく、私的なご旅行という扱いになったためです。
平日の運転であったこともありますが、1号編成のときのごった返した感じとは打って変わって、カメラを向ける人は数えるほどでした。
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