構内放送ログ(2021.10〜2022.9)

2023.04.02 UP

構内放送ログは半年で公開終了としていましたが、主に地元の話題を過去ログとして維持します。



普通 ホームタウン

路線図に直帰される方はご利用下さい。


●田園茶屋駅構内放送(22.9.27)【台風15号で大井川鐵道が大きな被害】

9/23の夜から翌24日未明にかけて襲来した台風15号。週間予報の段階では、熱帯由来の低気圧なので、大雨に警戒が必要という程度でした。気圧や最大風速の線引きだけで台風の扱いになるだけかと思っていました。ところが、愛知県東部や静岡県内では線状降水帯が発生。当初の予報を大幅に上回る雨量となりました。
 東海地方では、伊勢湾台風を上回る勢力で、これまでに経験がないほどの危険な台風と言われた台風14号よりもたちが悪かったとすら言えるものと思います。
 大井川鐵道はどうなるだろうかと心配していましたが、倒木や土砂流入など、広範囲の被害を受けたと伝えられています。特に、神尾−福用では、倒産した採石業者の土砂が大量に流入。架線の高さ程度にまで積もった土砂のセンセーショナルな写真がツイッターに流れてきました。
 それを見て、ついに廃線か?のような過剰な反応が見られます。これは、過激な発言で注目を浴びたい人が少なくないという現象でしょうか。「プチ」を含めた「炎上」狙い。SNSのよくないところでしょう。
 あくまでも私見ですが、移動先が確保できれば、線路上に積もった土砂の除去はそれほど難しくないように見えます。むしろ、その上を通る国道は路盤が崩壊してしまっており、線路よりも復旧がたいへんであるような印象を受けます。
 大井川鐵道ではこれまでにもたびたび大規模土砂崩れの影響を受けてきました。しかし、コロナ禍によって数年の単位でダメージを受けている環境下での被災は、より深刻度が高いのであろうと思います。
 頑張れというのは簡単ですが、傍観するのは無責任にも思います。長年お世話になっている大鐵さんをなんとか応援する手立てはないものかと考えています。
 写真は1982年に下泉−駿河徳山が不通となった際に新金谷までいったん回送されて来ていたSL列車です。客車は国鉄の12系お座敷車です。

●構内放送(22.9.11)【西尾市、蒲郡市で募集された「ミュースカイ」の団臨

6000系白帯車と交換する「ミュースカイ」の団臨西尾、蒲郡線では、西尾市、蒲郡市、名鉄の共同企画としてミュースカイの臨時列車が運転されました。沿線自治体として、積極的な集客活動と言えます。西尾、蒲郡発の列車の乗車希望は各々各市で募集されました。たいへん好評を博したようで、席が埋まっているように見えました。
 私も沿線に出ていましたが、三河鳥羽駅付近で白帯車6011Fを目撃。吉良吉田の折り返しは12時とわかりました。一方、ミュースカイは蒲郡発12:02です。過去の目撃情報などから整理してあったデータを確認すると、西浦ですれ違うことが予想できました。
 今から行ってもとは思いましたが、わかった以上、交換シーンを見たいものです。既に多くの方がお見えでしたが、親切な方数名が入れて下さいました。
 写真は動画から切り抜いたものです。ここを見て下さることはないかもしれませんが、周囲で撮影された方のご親切には感謝です。(22.9.11)

寝台特急「金星」に乗って出掛けた中国地方旅行から50年

リバイバル「月光」、「しおじ」と山陽特急小集所蔵する写真には50年が経過したものが出てきました。ツイッターでは新たに「#碧電シリーズ50年前」というタグを設けましたが、まだ1コマのみです。
 1972年(昭和47年)の夏休み、初めて中国地方への旅行に出掛けました。過去に書いたことがあると思いますが、当時小4の私は行程表を見てびっくり。名古屋から小郡までが寝台特急「金星」だったのです。憧れだった581系に乗ることができる。はたから見てもずっとハイテンションであったことは想像に難くありません。
 ツイッターにはとても書ききれませんが、乗車中のエピソードを少し記します。
 興奮してぐっすりは眠れなかったように思いますが、はっきり目が覚めたのは、広島到着の案内放送でした。6時前なのでごく短い放送です。私は中段寝台の小窓からずっと外を眺めていました。上りの581系とすれ違いましたが、サインは「きりしま」でした。また、瀬野駅にはEF59が停まっていたのを記憶しています。
 なぜそんな機関車を知っていたのでしょうか。当時から我が家には「電気機関車ガイドブック」という本がありました。小学生には難しい本ですが、父が買ってきてくれたものです。EF59はその本で知ったもので、見たいと思っていたのです。
 写真からリンクしたページは2001年に暑中見舞いとして公開したものです。このたび、碧電蔵町駅扱いとし、サーバーを移転しました。特急「金星」の写真はプリントからスキャンしたものでしたが、ネガがみつかったため、そちらから取り込んだものに差し替えています。
 最後尾のクハネは何かにぶつかったのか、へこんでしまっています。当車だと思われる写真がこちらのブログに掲載されています。へこみ具合が同じです。このブログは更新が停止していますが、国鉄、私鉄と幅広く、貴重な写真が満載です。

●構内放送(22.8.14)【シリーズ40年前/鉄研夏合宿1982 続き】

前年よりもダイヤが繰り上がり、上下とも9:00発、16:30終着のダイヤが実現したようです。雨で暗く、コダクローム64では厳しい露出でした。ツイッターで連載中の鉄研夏合宿。宿泊先が新宮なのに、そこから特急を使っても3時間ほどかかる非電化ローカル私鉄を訪れています。紀州、有田の両社には、国鉄から既に消え去った形式が所属していました。どちらもその当時で実質上引退しており、車籍があるだけという状況でしたが、それらを見たかったということです。当初の計画では2社を初日に訪れて、2日目は先輩たちと紀勢線南部を訪れるつもりだったようです。しかし、お目当てであったEF5866号機(当時唯一残っていた青色塗装の大窓機)が休んでいると聞いていたため、ローカル私鉄を優先しました。
 実は、7.23に宿へ帰ると、先輩たちから「66号機が来たぞ」と言われました。運用どおりに流れれば、7月25日の朝新宮を出る121レ和歌山市行を牽きます。当時は事前に運用がわかることはなかなかありません。休んでいると聞いた66号機が動くとなっては、撮り逃す手はありません。
 使っていた「南近畿ワイド周遊券」は名古屋が周遊範囲に入っています。名古屋→刈谷を別途支払って、出直すことを決めました。ただし、名古屋までは紀勢線または関西線を利用しないと、周遊区間外の別途乗車券が必要となる区間が長くなってしまいます。時間はかかりましたが、奈良、亀山経由で一旦帰宅しました。
 そして、自宅で一泊だけして再度特急「南紀」〜「はやたま」で大阪へ向かいます。反対向きの天王寺発924レ「はやたま」に乗車すれば121レを紀勢線の奥の方で撮れたものと思います。なぜそうせずに、あえて7.21〜22と同じ経路を選んだのでしょうか。当時の私は撮影地にはこだわりがなく、キハ82系にもう一度乗れる方が魅力的であったということだったと思います。
 さて、ここまで掲載写真の説明に全くなっていませんね。7.25に再出発する前に撮影した列車。それがリバイバル特急「つばめ」でした。自宅から近いところでの撮影ですが、前年の通過時間を想定していました。ボーっとしていると、隣で撮っていた人(中学生?高校生?記憶があいまいです)が私の方を見ているのに気づきました。なんと、もうヘッドライトが見えていたのです。慌てて構えましたが、彼がいなかったら危うく撮り逃していたかも知れません。残念な天気でしたが、写っているだけましと思うしかない状況でした。
 ツイッターにも追って掲載予定ですが、碧海エリアを通過した列車ですので、本稿に先に掲載します。(22.8.14)

●3年ぶりの豊田おいでん祭臨時列車

この記事は甍ヶ淵駅第2a展示室にて常設化しました。

猿投まで片道運行された後は夜まで留置となる運用ではなく、シャトル列車に使用されたのはラッキーであった。22.7.31は暑くて出掛けるのが億劫でした。定期運用から離脱と報道されたEF6627号が昼頃の3075レで来る予想でしたが、同列車は東北本線からの継承列車が大幅に遅れており、結局碧海エリアの通過は夜間になってしまいました。
 そんな中、ツイッターのあるつぶやきから今日は豊田おいでん祭の花火大会があることを知りました。コロナ感染症の影響で2年連続中止となり、3年ぶりの開催です。
 そのつぶやきは3500系ワンピースのラッピング列車の運用が公式発表されており、午後、おいでん祭増発用に猿投行での送り込みが含まれていることを匂わせるものでした。ひとことだけでピンと来るのですから、秀逸なツイートですね(笑)
 私はアニメ系ラッピング列車には関心がありません。鉄友には参考情報として連絡はしましたが、自身はパスするつもりでした。
 午後、転寝をしていたら、鉄友からメールが着信。無事に撮影できたとのお礼のほか、知立駅に3300系が留置されているとの内容がありました。
 これまでラッピングがない「銀電」が三河線に入ったときは、ことごとく撮影の機会を逃しています。それがやっと撮れるとなれば、ダメ元でも出掛けるしかありません。
 結局、同編成3309Fは16時頃土橋へ回送され、豊田市までの「シャトル列車」に充当されました。複数コマ撮影しましたが、「普通 豊田市」が読み取れるものをご覧いただきましょう。(22.7.31)


●構内放送(22.7.24)【シリーズ40年前/ポジフイルムで撮影した大井川乗り入れの111系】

木製ポールの単線区間をゆく111(or 113)系ツイッターでの連載はまだ続いており、完結していません。今週も碧電本稿は独自のものとなります。
 40年前の夏休みは7.20出発予定で鉄道研究会の夏合宿が控えていました。7.18の帰省に際しては、南近畿ワイド周遊券を購入して、東京→静岡で急行「東海」に乗車したことがノートに記されています。
 まっすぐ帰ったかと言えばそうではなく、大井川鉄道に立ち寄っています。この頃、初めてポジフィルムを使用したことから、早速SLを撮影したかったと見られます。しかし、夏場に勾配区間で撮っても煙は期待できないという知識がなく、全く吐かずにやってきてがっかりしました。
 使用したフイルム、コダクローム64(KR)は露出の許容度が狭く、初心者には難しいものです。先輩から「露出オーバーは避けてアンダー気味のほうがよい色が出る」という助言を聞いていたのですが、失敗が目立ちました。それは、カメラの露出計の値をそのまま信じてしまったからです。表示値から半絞りほど下げるという決め方をしていたことが災いしました。背景の明るさや逆光の場合を考えず、補正をするというテクニックが備わっていなかったのです。それは、スキャンすると露出不足が目立つネガカラーでも同様でした。
 掲載写真は国鉄から乗り入れてきた111系(or 113系)の快速「すまた」です。定期列車ではなく、多客シーズンのみの運転でした。
 この写真については、背景が濃い緑色で、露出計の値より半絞り絞ったことで結果的に適正露出になったものです。コダクロームは保存性が極めて良好で、40年が経過しても褪色や変色が認められません。


●構内放送(22.7.17)【シリーズ40年前/知立で撮影したモ800形】

踏切待ちの間、たまたまやってきた805Fを撮っていた。先週は1週間で撮影した臨時列車など4コマをアップしました。しかし、今週は一転1コマも撮影していません。
 間が空いていたツイッターの投稿については、連載としています。中途半端な状態ではなく、完結してからまとめてご覧いただく予定です。
 さて、ならば、今週の更新はどうしましょうか。考えていたものの準備が未済のため、急遽レタッチ、修復をしたのが今回の写真です。
 40年前の1982年は埼玉県在住であったため、名鉄はあまり撮っていないことには触れました。その少ない写真の中の1コマになります。
 この日、1982.2.28は、常滑線で混合列車(本稿過去ログ参照)が運転され、撮影に出掛けていました。知立駅から自転車で帰ったようですが、踏切でちょうどやってきたAL車の急行にカメラを向けたようです。800系805Fは鞍ヶ池公園で保存されている編成ですが、現役時代に撮ったのはこの1コマしかありません。
 このネガは38年間行方不明になっていたものです。カビの汚染があり、修復はなかなかたいへんでした。(22.7.17)


●構内放送(22.7.10)【今週は地元の話題が盛りだくさん】

●キハ85系廃車回送

廃車予定の中間車6両を挟む先頭車は後日返却回送された。7/1から名古屋−高山間でHC85系の量産車が営業運転を開始しました。4日後となる22.7.5の早朝、キハ85系の8両編成が西浜松へと回送されました。聞くところによれば、廃車予定は中間車の6両で、両先頭車は7.8に2両編成で名古屋車両区へ帰って行ったそうです。
 過去にキハ85系は岡崎までは「ホームライナー岡崎」として定期の運行がありました。(さらに夜間に蒲郡まであり)自宅付近では撮影実績があります。岡崎以東では日頃見られなかったことも意識して、相見−岡崎間で狙ってみました。(22.7.10)


●名鉄215F定期検査出場

「いちおう」ながらも唯一の200系215F名鉄の鶴舞線乗り入れ車である211〜214Fまでは100系です。同ロットとして製造されましたが、117F〜120Fとすると、120Fで番号の重複が生じるため、200番台にしたと見られます。そして、最終増備の215Fだけは200系とされています。
 広い意味での100系は1978年に抵抗制御車として登場。その後、6連化の際には名鉄初のVVVF制御の電動車+付随車を挟みました。そして、215Fは電動車を全てVVVFとして登場。111Fの登場から16年以上が経っていました。
 さらに、初期の抵抗制御車はVVVF制御に改造されたため、215Fだけを200系として区別する必要があるのだろうかと、疑問に感じる状況になっています。3種類が混在していた制御方式や、ややこしい番号割など、特異な系列と言えましょう。
 舞木検査場の試運転線に出てきたとの目撃情報があり、動向を注視していました。


●構内放送(22.7.3)【名鉄貨物ご提供映像/声を張り上げて誘導 弥富駅入換

動画の閲覧はこちらから例年にないほどの早さで梅雨が明け、猛暑になったかと思えば、本稿更新日の22.7.3は一転朝から雨となりました。数日前までは夜に一時雨の可能性あり程度だったのに。
 ご存知の方もお見えかも知れませんが、本日催行の予定であった名鉄2000系ミュースカイの豊明‐豊川稲荷‐伊奈‐蒲郡を巡る団臨が中止となりました。尾張方面を中心にゲリラ豪雨に見舞われ、名古屋本線は栄生‐知立間が不通になりました。その影響もあってか、発車時間を過ぎても集合となる豊明駅に到着できていない参加者が続出したようです。
 ミュースカイは2009年の10月に蒲郡線に入っていますが、そのときは休日出勤のために撮影を断念したこともあり、またしても・・・という事態には愕然としました。
 しかし、私のようなギャラリーはともかく、発車予定時間を過ぎてから急遽中止となった参加者の皆さんや、名鉄さんと何度も打合せ、準備をしたであろうツアー会社の方々はほんとうにお気の毒でなりません。
 さて、前段が長くなりました。今回はツイートを使用せず、久しぶりとなる名鉄貨物のご提供映像です。通算では4回目となります。
 当初、映像を拝見した時、どこなのかがわかりませんでした。キハ58系が通過する電化路線・・・。
 本映像は今ならば無線を使用するであろう誘導が肉声で行われているのが見どころ(というよりは聴きどころか)です。大声を張り上げているのは国鉄の係員だそうです。弥富駅に入る貨物はもはや僅かであり、名鉄の係員を配置せず、国鉄に委託されていたのでしょう。
 視聴環境にもよりますが、ぜひ音声はオンにしてご覧いただければと思います。

●飯田線、ED62が牽くお座敷客車「白樺」

朝から大雨で露出が上がらなかったが、本命のED62+白樺の通過時にはいくらかましになった。それでも、浮かび上がるヘッドライトなど、よい感じに撮れた。久しぶりとなる「シリーズ30年前、1992年」です。
 当時、飯田線北部にも時々団体臨時の客車列車が入線していました。客車はJR東日本ですが、飯田線内の牽引機については、ED62がJR貨物、EF58がJR東海の所属で、借用する必要がありました。そのためもあってか、年に数回という頻度であったと思います。それが土休日に当たるとなると、さらに撮影できる機会は僅かしかありませんでした。
 当日の天気予報は「朝から雨、風ともに強い」と、出掛けるのを躊躇するものでした。車を持っていなかったので、夜行電車を利用しますが、苦労しても報われないのではないかと思われました。
 しかし、「雨でどこへも出かけず、家でゴロゴロしているよりは」とは、当時の撮影日記に記されていたことです。成果が思わしくないかもしれないことは覚悟しての決行だったことがわかります。
 ツイートにも記しましたが、撮影ポイントの手前の駅である伊那新町ではしばらくの停車がありました。その間、交換列車は来ませんでした。はっきりした記憶がありませんが、定期の普通電車と行き違いがある駅は通過か、停車してもごく短時間であったように思います。
 想像になりますが、飯田線北部は交換線の有効長さが短いため、交換のために機関車+12系6両という長さの臨時列車が停車すると、有効長さをはみ出したり、構内の踏切を塞いでしまう駅があったのではないかと思われます。
 ちなみに、現状では、保安装置の関係で最大3連までしか入ることができないそうです。(22.6.26)

●構内放送(22.6.19)【165系+185系の高崎線急行】

165系と185系200番台の連結部今週は先週追加した185系200番台の関連画像です。同系は急行「軽井沢」のほかに、吾妻線に直通する「草津」、両毛線方面の「あかぎ」、上越線の「ゆけむり」に使われていました。高崎線内、東北線内は2系統の併結列車があり、一部は在来の165系と185系の併結運転でした。リレー号の運転が始まれば、併結運転が終了するのではないかと考え、お手軽に宮原駅付近へ出掛けました。当時住んでいた学生アパートから自転車で30〜40分くらいであったと思います。5月は2回も県外へ出掛けていたため、出費を抑えたかったのでしょう。
 複数の写真をまとめて1回で投稿される方が多いのですが、私はそれをあまりしません。どのコマに人気が出るだろうかと思い、3コマを意図的に独立したツイートとして投稿しました。
 サムネイルの連結部分は一番人気で、日付が19日に変わって10分ほどで「いいね」が1000を超えました。碧電アカウントとしては2回目です。
 余談になりますが、「いいね」はピークを迎えた後、徐々に減ってしまいます。日頃お使いの方はご存知のことでしょう。どうも、「いいね」をしたアカウントが削除されると、「いいね」も取り消される仕様になっているようなのです。それを知っていたため、これまでの最高記録はスクリーンショットを保存してあります(笑)
 こんなに「いいね」やコメントをいただけるのならば、もうツイッターに一本化しましょうか。いいえ、それは考えていません。その理由の一つは、公開から丸二日を経過したところで、「〇〇さんがいいねしました」などの通知がぱったり来なくなりました。ツイートは埋もれてしまうのが早いのです。
 また、「ツイッターはやらないので、毎週楽しみに見させていただいています」という声を直接いただきました。あくまでもツイッターは補助の位置づけであることに変わりはありません。
 他のコマは#185系200番台というタグからご覧になれます。ただし、汎用的なキーワードのため、他の方の投稿も表示の対象になります。


●ダブルパンタの313系1700番台「特別快速」

ダブルパンタのJ171編成が「特別快速」に6/18は朝からいただいたコメントに返信をするなどで、ずっとスマホが手放せませんでした。すると、5087列車には久しぶりの「カラシ扉」EF652127号機が入ったという写真がタイムラインに流れて来ました。時計を見ると、直前に通過済でした。
 空コキが目立つ編成だったようですし、まぁいいか・・・。しかし、皆さんの投稿を拝見すると、空コキが目立たないようにアングルを工夫されるなど、感心するものが複数ありました。
 翌6/19の朝、ダブルパンタの313系1700番台が8連の「特別快速」の先頭で豊橋に向かっているとのツイートが流れて来ました。調べてみると、豊橋からの折り返しも「特別快速」のようです。しかし、後打ちで撮らなければ意味がありません。
 徒歩圏の定番撮影地ばかりでは能がないですね。とはいえ、後打ちの撮影ポイントは日頃から「こういうときにはここで」という脳内データがありません。
 そろそろ自宅を歩いて出ようかとしたとき、ふと1つのアングルが思い浮かびました。写真の通称「森岡陸橋」は下り列車をアウトカーブで撮影するのが定番です。しかし、大府駅で長時間抑止されていた5086レや8862レを撮影するため、反対側に上がったことがあったのです。すぐに出れば何とか間に合いそうです。
 下り線は周辺では珍しくもポールが奥側にあり、次無動や特大貨車「シキ」など、ポールを掛けずに撮りたいときによく行っています。そこを陸橋上から後打ちで撮ろうというわけです。
 難点はアウトカーブのため、3本の併結で8連になっているのがわからないかもしれないところでした。しかし、結果はご覧のとおり、全体が納まりました。
 ただ、最後尾のパンタグラフは架線ビームをギリギリ抜けたところでした。もう少し深読みが必要なところでした。もうひとつ、LEDの表示はどうしても欠けてしまいます。S.S=1/640で切りましたが、黄色が写れば「特別快速」とわかりますので、なんとか合格でしょうか。(22.6.19)

●構内放送(22.6.12)【詳細な撮影ポイントが判明したEF61の写真(現状の写真を添えて)】

下枠交差型パンタが特徴だったEF6111号機が牽く荷物列車(荷31レ)後年、この上を国道23号線が跨ぐことに光ケーブルテレビの契約を碧海エリアの会社に変えて1ヶ月になります。私が地元を離れていた時期に、近隣建物建設による電波補償工事で入っていた時期がありますので、戻したと言った方が適切でしょうか。その結果、前の会社では見られなかった地元の番組が見られるようになりました。
 長年にわたって「西三河の肖像」というシリーズがあります。2006年に放送された番組の再放送である、「安城支線」(名鉄西尾線の南安城‐国鉄安城間)は辛くも見逃さずに視聴できました。
 長くなってしまいますので、説明は機会を改めますが、明確な目的は謎だとされる同線の建設理由などについて、調べ、考えてみたいと思います。
 さて、今回は久しぶりにツイートを直接埋め込んでみました。40年前である1982年のネガで未スキャン画像を取り込んでいますが、その中にあったものです。
 荷物列車を牽くEF61形の11号機。当時、広島工場で検査を実施する機関車には、PS22形パンタグラフを装備するものが多くありました。EH10にも取り付けたものがありましたので、広島工場に限られたものではありませんが、EF58、EF59、EF61形200番台については広島工場ならではのものであったと言えましょう。そんな中、EF61形基本番台については、結局のところ11号機のみの装備となり、同機を狙って沿線に出たものと思われます。記録ノートにはこの日、これ以外の撮影記録がありません。
 この写真については、詳細な撮影地点が当初わからなくなっていました。その後、他のコマから国道419号線アンダーパスから架線柱2スパン分手前であることが判明。現地へも足を運んで、3スパン目に見える白い標識が現在は国道23号線知立バイパスの上り線の直下にあることを確認しました。写真には写っていませんが、機関車のすぐ左が338.8km。後方の標識が338.7km地点とすると辻褄が合いました。ツイートの返信に現状の写真を添付しています。バックの送電線の写り具合も一致すると考えてよさそうです。
 このような現地調査を伴う考察から発見があるのは楽しいものです。


●碧海エリアでは珍しい2両編成の211系

名古屋工場から検査出場した2両編成の211系が静岡へ帰って行く211系は碧海エリアの東海道線では過去の車両になっています。大垣区に5000番台が配属されている頃はクモハ+モハ+クハの3両ユニットでした。
 211系にはクモハ+クハという2両ユニットのものがあります。電動車が1M方式なので、本来ならば別形式になっても不思議ではないところです。1M方式という視点からは213系に編入されそうですが、3扉で211系と一緒に運用されることから211系に含められたようです。
 クモハは6000番台です。運用は静岡支社管内の支線を中心としたものが想定されていたようで、通常碧海エリアに来ることはありません。
 6/1は名古屋工場からの検査出場で、試運転を行いながら所属先の静岡車両区へ帰って行きました。静岡車の検査出場列車は従前からダイヤが大きくは変わっていないようです。
 この2連の211系も置き換え対象になっています。既に211系に運用離脱車が出ている今、今回が最後の大規模検査になってしまうのでしょうか。(22.6.5)

●にしがま号に乗車しました

にしがま号の車内には歴代の白帯車の写真が中吊り広告として展示された名鉄蒲郡線で運用する6000系6011Fに白帯を入れて、緑色の「にしがま号」のサボを掲げての運行が本日、22.5.8で終了となりました。ただし、帯はまだ消されないとのことです。
本プロジェクトは、蒲郡線の活性化を目的としたもので、集客効果を測る社会実験的な意味合いもあるのではないかと思われます。やったけれど、さしてお客さんは増えなかったということになれば、プロジェクトの評価が下がってしまうことでしょう。
 半日もあれば蒲郡線に乗ることが可能です。実際にどれくらいの人が来ているのかにも関心があったため、乗車することにした次第です。
 蒲郡まではJRで行き、ここから6011F「にしがま号」を利用しました。カメラ(スマホを含む)を向けている人のほか、前面展望の動画を撮影しようとする少年たち。私のような年寄りは少なかったようです。
 GW最中の好天の日という条件の良さもありましたが、明らかににしがま号が目的という人は少なくないと感じました。
 どこか適当なところで撮影しようと考え、あてがないながらも西幡豆で下車しました。しかし、光線状態がよくないほか、引きが取れる場所がありません。結局一駅歩いて三河鳥羽駅で列車交換を撮影しました。
 その結果、蒲郡、三河鳥羽駅の両駅で買ったきっぷは元々なかったものが売り上げになったということになります。私一人が乗ったところでどうにもなりませんが、これから長い利用者になるであろう少年たちが喜ぶ企画は「お得意様」を育てることにつながります。これからも期待したいところです。(22.5.8)


●構内放送(22.4.10)【シリーズ30年前/岩手開発鉄道の旅客営業終了】

岩手開発鉄道の旅客営業終了から30年が経過しました。最終日間際の92.3.29にはキハ301とキハ202が2連で運転されました。訪問日から30年を少し過ぎましたが、92.3.29〜30にかけて、岩手開発鉄道を訪れていました。
 私は学生時代から各地のローカル私鉄を訪問していました。全社の訪問達成はハードルが高いと感じていましたが、非電化私鉄はコンプリートしたいと思っていました。
 未訪問のまま廃止になってしまったところが複数社あり、残念なところはありますが、30年前の段階で残り数社になっていました。そのうちの1社が岩手開発鉄道です。
 同社は起点である盛までの足が不便で、訪問に時間がかかります。しかも、旅客列車は朝夕に計3往復。機能優先で魅力という視点では今ひとつのキハ202号1両のためには・・・というためらいが拭えませんでした。
 しかし、いよいよ旅客営業が終了するばかりではなく、予備車で滅多に出番がないキハ301号を動かす予定だと言います。キハ301が動くのならばと訪問を決めたのでした。
 1992年以降は貨物専業となった同社ですが、盛からセメント工場がある赤碕の間が津波で深刻な被害を受けました。復興を願って同社のページをアップしたのは2011.6.19のことです。
 ツイートでは未使用の写真をアップしました。同ページの写真はスキャナーの不具合で状態がよくないものが多いため、別のスキャナーで取り直しを行いました。しかし、その画像も修復が必要な状態です。写真を差し替えたいと思っていますが、今しばらく時間がかかりそうです。

●「にしがま号」用6000系白帯車

他編成との併結で西尾線内の列車に充当される白帯の6000系6011F表題の電車、名鉄6011Fは舞木検査場で白帯を貼り付け、3.19に出場、回送。そのまま西尾駅で発車式を行って運用に入っています。
 地元の話題なのになぜ早く写真を載せなかったのでしょうか。出場の日以来、撮ってはいるのですが、出来栄えが気に入らなかった・・・。それだけのことです。
 ツイッターには蒲郡線内で撮られた写真が多数流れて来ます。特に、満開の桜とこいのぼりを入れて撮れるポイントは人気があったようです。天邪鬼な碧電は皆が見せたがる写真を避けているところがあります。なので、少し視点を変えたシーンをお目にかけたいと思います。
 6011Fの運用ですが、白帯デビュー以来、曜日ごとに同じ運用に入っているようです。これは、白帯を入れた理由が蒲郡線の活性化を目的にしたものであるため、週末は蒲郡線から外れないように計画されているのではないかと思われます。
 ずっと蒲郡線に封じ込められているわけではなく、水曜日の朝、新安城8:37発の急行新可児行で犬山地区へ向かいます。木曜日は広見線のワンマン区間(ただし、他車のこともあり)の運用をこなした後、深夜に新安城へ到着して停泊します。そして、金曜日の朝は他編成との併結のうえ4連で西尾まで2往復半走ります。
 矢作川、鹿乗川橋梁の米津方の堤防には桜の木があったので、それと絡めてみました。ちょうど桜の木の前に低いケーブルがあるのですが、このように真横から広角レンズで撮れば、ケーブルはあまり気にならず、「矢作川」の看板も目立ちません。

●313系+213系の回送列車

313系1700番台+213系の回送列車#313系J173編成+213系H5編成。EF210の試作機、901号機は最近全般検査を受けて塗装が改められました。3/25には1050レ(野田新町14:40頃通過)に充当されていることがわかりました。この日はまたしても定期通院の日と重なりましたが、時間的になんとか撮影が可能でした。撮影地に到着すると、1050レの10分ほど前に前パンの313系がゆっくり近づいて来ました。後ろの2両は帯の色が違います。213系との混結編成です。
 前寄りの313系は3両組成の1700番台で、今回のダイヤ改正で神領から大垣へ転属となりました。同車のうちの1本が交代で飯田線の運用に充当されるのは、転属後も変わらないようです。
 豊橋へ送り込まれる編成と大垣車両区で交番検査を受けた213系(H5編成)が一緒に回送されたということのようです。
 213系は東海道線内では営業運転が行われないため、交番検査の際は豊橋‐大垣間で回送列車が設定されています。2連、固定セミクロスシートの313系R100番台編成については、営業運転の運用途上で差し替えが行われるようです。1700番台ついてはどのような方法が所定なのかはまだわかりません。ただし、今回は動物と衝突した編成の差し替えを行う必要が生じて、急遽回送されたものとの情報もあります。

●構内放送(22.3.13)【三河線の刈谷市折り返し列車】

この記事は甍ヶ淵駅第2a展示室にて常設化しました。

「知立−刈谷市」のサボを取り付けた刈谷市折り返しの知立行JRグループのダイヤ改正の話題の前に名鉄三河線の写真をご覧に入れます。
 22.3.9の早朝、三河線の吉浜−小垣江間で運転操作を誤ったと見られる自動車の線路内進入という事故が発生しました。幸いにも接近していた電車の衝突は免れ、手前で停車できたとのことです。
 三河線では主に東海道線の輸送障害時における振り替え輸送を担う目的で、知立発刈谷市行の増発列車が運転されることが時々あります。「刈谷市」の行き先表示幕がないためか、このときのためにサボが準備されています。
 今回は東海道線の振り替えではなく、刈谷市以南の不通に対応して刈谷市折り返しの電車が運転されました。撮影仲間に三河線で通勤している人がいますが、サボが入った刈谷市始発列車に乗ったというメールをもらいました。
 8:20には復旧し、直前に通過した碧南行は所定どおり「碧南」を表示して来ました。刈谷で交換した知立行は前面のサボはありませんでしたが、後ろ側には取り付けられていました。
 トラブルへの対応で運転されるものですので、喜ぶわけにはいきませんが、三河線はこのようにして区間運転にも対応できる体制を整えています。なお、比較的最近には増発刈谷市行に9500系が使用された実績があるとのことです。

●構内放送(22.3.6)【211系0番台が運用離脱→西浜松へ回送[写真追加]】

青帯をまとい、117系と伍して快速運用に充当されていた頃の211系2022.3.5から中央線で315系の営業運転が開始されました。相前後して3両編成の313系が大垣へ転属した模様で、それを補うように元セントラルライナー用313系8000番台車が愛知環状線や関西線に乗り入れるのが話題となっています。さらには、最後の国鉄からの引継ぎ車、211系0番台2本が3/5、3/6の両日、夜の運用に入らず、他編成によって運行されているそうです。2編成が連結された状態で神領車両区に留置されているとのことで、これにて運用終了というのが専らの噂です。
 ツイートではおさらいとして、国鉄時代に211系が登場した経緯を記しました。近年では同車はJR東海の2本のみの存在で、希少性が高いというコメントをしばしば目にします。登場した当時を知る世代としては、ついついケチを付けたくなりますが、いちいち指摘などをすることはなく、スルーしています。ただ、ネット上でコメントを記すときは、もう少し慎重であってほしいと思うところではあります。
 同車はデビュー当初は117系とは独立した運用で、快速主体の列車に充当されていました。2本のみながら、首都圏に配属された同グループ車とは明らかに異なる使い方をされていました。
 職場が東京になるまでの約1年間ではありましたが、帰宅時にしばしば利用しました。86.11改正では名古屋発21時台の列車が4本になり、待ち時間が短縮されました。それでも、現行よりもはるかに列車が少なく、以降の列車は普通のみでした。
 名古屋21:15発の岡崎行は211系の運用で、21:00(or 20:59?)の列車を見送ることがよくありました。先行列車は混んでいて、113系の非冷房車も多かったのです。
 やっとMT54ではなくなったモーター、ボルスタレス台車の軽やかなジョイント音、進段時のカクンカクンという独特の衝撃など、今までの電車とは明らかな変化が心地よく感じました。
 個人的には思い出深い電車がまた消えていきます。(22.3.6)
JR東海では最後の国鉄引継ぎ車の2本が揃って西浜松へ最後の本線走行 定期更新の翌朝、神領車両区に留置されていた211系(名古屋方)K51+K52編成(>浜松方)が早朝に神領を出て、西浜松の留置線へ回送されました。381系最後の1編成も営業運転を終えた翌日に西浜松へ回送されていますので、「すぐに回送」は実績がないわけではありません。最後の本線走行となる可能性が高い列車を見送ることができましたので、写真を追加します。
 JR東日本、西日本では、まだ113系、115系が残存しています。それゆえにまだ廃車はもったいないとも思えます。晩年は日中も昼寝という使われ方でしたが、デビュー当時は青帯を巻いて颯爽と走る姿。湘南色帯に改装後も120km/hで新快速に充当されたことは、211系史上特筆に価する実績となりましょう。(22.3.7追記)

●構内放送(22.2.20)【117系デビュー前の試乗会列車】

中京圏の117系デビューは既に40年前のこと年末年始から多忙が続き、前回の「構内放送」は変則更新とさせていただきました。相手がある仕事のため、自分のペースでは進められません。予想以上の作業内容となりましたが、巻きを入れたのが幸いして、期限を守ることができました。やはり、「ギリギリ」は避けたいものですね。
 さて、少し間が空いた懐古ものですが、40年前のノートを眺めていたところ、117系の試乗会が行われたのは今回の更新のちょうど40年前の日付であることに気づきました。しかし、ホルダを探しても画像が見当たりません。写っているネガは長年窓際の引き出しに入れていたせいか、結露等の影響を受けたとみられ、カビにやられてしまっています。イソプロピルアルコールで洗浄したいところですが、発見当初のアルコール品薄もあって、いまだにできずにいました。
 しかし、せっかくちょうど40年前となる日です。遅れてしまったのでは価値が下がります。スキャン後、修復には少々苦労しましたが、カビ(緑変)が目立たないようにしたうえで公開にこぎつけました。
 既に全車が引退している名鉄局→東海会社の117系ですが、国鉄末期に予算が付いた時には名古屋鉄道管理局では湧き上がったという話が残っています。試乗列車の発車式?の準備の様子ですが、ささやかさは感じるものの、当時の名鉄局の思い入れが伝わって来ます。ただの「並び」写真よりも数段価値のあるものになったと思います。
 この日は名古屋−蒲郡往復の試乗列車に当選して乗車しました。蒲郡までノンストップで爆走はよいのですが、音が113系と同じMT54なのは、少し残念に思ったことを覚えています。
 JR西日本ではいまだに117系やそれよりも古い115系が残存しているのに、東海会社の117系は登場時の期待とは裏腹に、淡々とした扱いで消えて行ったのが寂しく思います。

●構内放送(22.2.9)【2月初頭の話題から】

定期更新が3日も遅れまして、ご心配をお掛けしました。伝言板には書いておきましたが、前の週末は業務が多忙で、日曜日の夕方には更新は到底無理という状況に至ったことがわかりました。余裕があると思っていた早朝には撮影に出掛けていますので、作業時間の読みが大きく外れてしまったことになります。簡単に回答できると思った問いから予想もしていなったところの手直しに波及。10分で済むと思ったら2時間かかったという具合です。同様の事項が複数生じてしまいました。
 昨今、AIならばそんな失敗はしないと言われそうです。何をおっしゃいますやら。AIは教えたことしかできないですよね。AIにバックアップしてもらうのならわかりますが、「お任せ」は人間の思考停止、脳力低下につながりはしないでしょうか。
 前置きはこれくらいにして、今回はツイッターを使わずの更新になります。2月に入ってから更新日までの話題です。

三河海線に非ワンマン編成6524Fが入線

三河海線に非ワンマン編成6524Fが入線2/4、日頃メールでやり取りしている鉄仲間から連絡が入りました。知立14:47発碧南行、通称新聞電車に6500系「金魚鉢」6524Fが入ったということです。
 充電中で見逃しということを時々やらかしますが、今回はすぐに確認できました。「せっかくなので近場で迎えます」と返信しました。
 さすがに碧南行は間に合いません。折り返し知立行は小垣江発15:45です。太陽の近くに大きな雲がまとわりついていて、時々陰ります。しかし、電車が来た時にはうまく日が当たりました。そして、直後に陰ってしまいました。
 ツイッターなどで調べると、三河ワンマン編成の6000系4連に不具合が出て、不足を来たしたのではないかという推定が見つかりました。以前にも「入るかも知れない」という連絡をいただいたことがありますが、「ごめんなさい。所定に戻ってしまいました。」ということがありました。通常ワンマンの列車に車掌さんを乗務させなくてはならなくなりますので、このような代走は極力回避したいという意図が見えます。そういう意味では、とても珍しいことだったようです。
 ちなみに、東海道線の振り替え輸送で知立−刈谷市の増発が行われたとき、9500系が充当された実績があるようです。(11.27付記事、5006F三河海線に戻る)

●DD200形が自力運転で碧海エリアへ

日の出直後に三河塩津付近をゆくDD200形。ASA1600で撮れました。DD200形が広域の定期運用を持つようになって1年になろうとしています。そして、次回の改正以降、さらに運用を拡充する見通しで、ここ最近では17号機以降の新製が行われています。
 同形は愛知機関区から各地へ回送されて、検査のために帰って来るまでは派遣先に駐在するという運用方法が取られています。地元配属の機関車ながら、定期的に見られるのは四日市駅構内の入換と、差し替えを兼ねた深夜のタキ列車くらい。目立つ存在ではありませんでした。
 このたび、往路2/6、復路2/9の臨時レール輸送列車に使用されました。
 これまでにも、九州からのレール輸送列車の貨車の一部を継走して、西浜松から静岡貨物駅までの列車に使用されたことはありました。稲沢から西浜松ヘは次無動で送り込みが行われており、碧海エリアに自力運転で現れるのはこれが初めてと言われています。
 写真は碧電掲載写真では初めての区間になります。あえて本文には撮影区間を記しません。すぐ近くではこんな写真が撮れます。

●100系の回送列車が三河知立に現れる

20m車の6両編成の100系が三河知立に停車。後部はポイントにはかかっていません。(←非ツイッター) 三河線定期運用区間外に現れた100系を久しぶりに撮ることができました。検査のための回送列車が三河知立駅に停車中の状況です。
 長いのでもっと前まで来るのかと思ったら、通常の旅客電車と変わらないようです。信号機やATS地上子の位置の関係でしょうか。
 google mapで停止位置から豊田市寄りのポイントまでを計測してみましたが、後部がポイントにかからずに止まることができます。
 列車が接近すると立ち位置の真横にある踏切が閉じますが、3分弱ほど閉まったままになりました。知立駅から本線の下り線へ入って豊明で折り返しますが、そのためには4番線へ入る必要があります。停車している三河線の碧南行が発車するのを待っていたようです。
 今まで意識したことがありませんでしたが、100系の向かって右側の線路は生きた状態です。実はアップ当日(22.1.30)確認しましたが、知立方向への出発信号機が点灯していました。線路が使われている形跡がないので、ずっと赤信号のままです。豊田市方向への出発信号機はありません。
 高架工事の進捗に伴い、三河知立駅は来年にも約800m三河八橋寄りに移転されるとのことです。構内は線路の保守作業基地にもなっていますが、見慣れた光景が変わってしまうのはそれほど遠いことではありません。(22.1.30)

●構内放送(22.1.23)【機関車故障で大幅遅延の東武500系リバティー甲種】

この記事はひびきヶ原駅第1a展示室にて常設化しました。

●構内放送(21.12.12)【タキ1000形1000号】

21/12/1に日本車両から出場したタキ1000形1000号は21/12/6の8862レで関東へ川崎車両所における私有貨車の検査入出場はおおよそ月初めの日曜日に下り8863〜9863列車(出場車、廃車予定車)、翌月曜日に上り8862列車が走るというパターンが定着したようです。12/5(日)に9863レが走りましたので、12/6の8862レを注視していました。すると、12/1に日本車両から出場したタキ1000形10両であることがわかりました。今回の新製車の特記事項としては、タキ1000形の1000号が含まれており、記念の特別塗装、ロゴが施されているということです。
 ただし、「1000号記念」というロゴは山側だけとのこと。それをきちんと記録したいと考え、相見−岡崎間へ行きました。
 当日はあいにくの天候でしたが、晴れると山側に光線が回りません。この日ばかりは好都合でした。
 1000号は日車を出る段階では機関車、車掌車の次位。「前後賞」となる999号と1001号は後尾に付いていました。そのような組成になっていることがあらかじめ目撃情報でわかっていたため、狙いやすかったと言えます。
 タキ1000形は1号車の製造から28年が経過して、まだ増備が続いているのは驚かされます。

●構内放送(21.12.5)【シリーズ40年前/初めてのお召電車撮影】

警備の警察官と183系+クロ157のお召電車が恵比寿駅を通過既に記していますが、40年前の1981年は進学によって愛知県を離れ、初めて埼玉県での生活が始まった年です。鉄道の撮影に関しては、当然ながら初めての連続で、期待感、感激の度合いは今とは比べ物にならなかったと言えます。連載している「シリーズ40年前」はそれを振り返る機会になっています。
 ワクワクしてその日を待ったものがいくつもありますが、その一つが今回扱う183系+クロ157のお召電車です。あと一ヶ月弱で40年前シリーズの対象は1982年になりますので、この機会に出しておきましょう。
 大宮のキャンパスでは週一回のペースで鉄道研究会の集会(と、言ってもフランクな雑談)があって、同級生から近いうちにお召電車が走るよと聞かされたのでした。
 お召列車と言えば、1979年(昭和54年)に愛知県植樹祭に伴うお召列車が走りました。しかし、走る2日間は部活の対外試合と重なってしまい、諦めざるを得ませんでした。そのためもあって、お召列車独特の空気を味わうのはこの日が初めてでした。同級生は撮影の経験があって、私は案内されてついていくだけなので迷うことはありません。
 カメラを向けていると、確か手荷物を調べられたと記憶しています。当時はホームで撮影する人も数えるほどでした。
 1979年頃までは牽引車は157系のクモハ、モハの1番、2番ユニットでしたが、既に引退して183系1000番台に変わっています。写真からわかりますが、警備の警察官、公安官(あいにく区別がわかりません)が列車に背を向けて立っています。通過時間が近づくと、上空にはヘリコプターが飛来して、一気に緊張感が高まりました。
ご紋章を掲げたクロ157-1 御料車はクロ157-1です。ツイートにも記しましたが、この頃、両陛下がご乗車になるときは、運転台が後ろ向きになるように連結されました。この時は伊豆の下田御用邸からのお帰りだったはずですが、往復で向きが反対だったことになります。
 183系の幕は無地にするため、白ではなく、車体のクリーム色に近い色になっています。これが目印にもなっていました。機関車牽引の1号編成とは違い、国旗の掲揚はありませんが、現地へ向かう道中など、かけがえのない思い出です。なかなかないチャンスを得られて、同級生、Kさんには改めて感謝したいと思います。

●構内放送(21.11.5、7追記)【おかげさまで21周年】

21にちなんだ形式は素直に伊豆急2100系にしました。2021.11.5に碧電は21回目の創設記念日を迎えました。長年にわたるご愛読をありがとうございます。
 さて、20周年は趣向を変えましたが、21周年は例年どおりに数字にちなんだ形式を記念画像としました。21という番号はあまり多くはないように思います。あまり凝った選定はせず、素直に伊豆急行2100系「リゾート21」にしました。この写真を撮影した当時はまだ第3編成ができたばかりで、私鉄車両としては初めて東京駅に乗り入れたということです。当初は快速であったものが特急になりました。
 私も社員旅行で乗車したことがあります。向かい合わせでリクライニングもしないシートでしたが、今となっては日頃乗れない電車に乗ったという一つの思い出になっています。
 以上、記念画像のみ開業記念日の本日中にご覧に入れます。(21.11.5)
 ここまでは開業記念日、11/5に掲載しました。以降は、この1年の動向を振り返ってみたいと思います。
 碧電における大きな変化。これはいうまでもなく、ツイッターを併用するようになったことです。トップページの更新情報を見ると、各駅の展示室の更新がほとんど進まなかったという印象を与えてしまうかも知れません。しかし、定期更新となる本稿「構内放送」のログを見ると、碧電エリアの話題は決して少なくはありません。1週間に写真を2枚以上掲載したことも多く、昨年よりは新しい(古い写真なので語弊はありますが・・・)写真の枚数が増えています。
 これまで、遠方の地域の列車、車両を掲載すると、目に見えて閲覧が少なくなりました。しかし、ツイッターでは注目していただける写真に地域的な偏りがなくなったと感じています。
 フォローしていただいている方はやはり人口に比例して大都市圏の方が多いようですが、特定の私鉄車両を出したときや、遠方へ出掛けたときの写真を出したときは、それをきっかけに関連地域の方がフォローしていていただくこともあります。それがこの1年に感じたことです。ご期待にはできるだけお応えしていきたい・・・。碧海エリア周辺だけにこだわることなく、幅広い話題を扱っていきたいと思います。
 最後に備忘録として。
 11/6深夜〜11/7の早朝にかけて、JR東海の在来線用新形式、315系が日本車両を出場。試運転を行いながら配属先の神領車両区へ入区したとのことです。週末の真夜中とは驚きました。深夜の出場はHC85系に続くものです。従前どおり日中に実施されていたら、情報が瞬く間に拡散され、駅や沿線でトラブルが起こりかねないという判断があったのかも知れません。これもSNS時代ならではの動向なのでしょうか。

●構内放送(21.10.31)【ご提供動画:名鉄デキ300形 布袋駅貨車入換】

動画の閲覧はこちらから名鉄貨物列車のご提供映像の第3回目になります。初回で犬山橋を渡る貨物列車の映像をご覧いただきました。その行き先は布袋でした。名鉄さんとしては、電車の高速化、高密度化、貨物扱い施設、車両の老朽化による維持費の増大という事情があり、貨物輸送を早く廃止したかったようです。しかし、荷主さん側の抵抗があり、名鉄貨物としてはかなり末期まで残っていたと伺っています。貨物の輸送方法が変われば、荷主さん側も施設や荷役機械等を変更、更新するといった投資が必要になるわけで、「止めますからよろしく。」では済まないということになります。
 その貨物輸送の末期の頃の映像になりますが、見たいところがちゃんと撮られていて、期待に応えられるものになっています。
 また、映像の中に係員と運転士さんが会話を交わすシーンがありますが、どのような状況なのかについて、撮影者の伊藤様より解説をいただきました。そちらはyoutube動画の説明文に記しましたので、ぜひご一読いただければと思います。一見何気ないシーンであっても、状況がわかることによって深みが出てきます。
 貴重な映像を快く公開に応じていただいた伊藤様に謝意を表します。


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