2022.04.03 UP

構内放送ログ2020年10月〜2021年3月(保存版)

構内放送ログは半年で公開終了としていましたが、閲覧数が多いものや、数自体は少なくても、検索などで長期にわたって閲覧数が伸び続けている記事は需要があると判断して掲載を継続します。



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路線図に直帰される方はご利用下さい。


●構内放送(21.3.21)【40年前、進学準備で埼玉へ/20周年企画:特急「あさかぜ」

関東の大学への進学を決め、母と一緒に住むところを探しに埼玉のキャンパスへ。早く着くため、特急「紀伊」を利用しました。待ち時間に撮ったものです。特急「あさかぜ51号」8011レ ナハネフ22 21 81.3.23 名古屋40年前の今頃は受験勉強、受験から解放され、進路を慌ただしく決めていました。複数の合格通知を受け取っていましたが、両親とも相談して、関東の大学に進学することを決めました。もう入学金の支払期限が迫っていました。
 私にとっては初めて親元を離れての一人暮らしです。その道を選んだのは、高校の国語教師のひとことが影響していたと思います。
 「各家庭の事情はあると思うが、許されればどんどん県外へ出なさい。」
 親元を離れることを積極的に勧めるのはその先生だけでした。
 聞いた時は特に印象に残ってはいませんでしたが、ある日、中間テストか何かで深夜まで起きていた時だったと思います。ふと、「家を離れよう」と思い立ちました。
 よくお腹を壊すからと、言い訳ばかり考えて内向き指向(思考)であった私に何か変化が起こっていました。
 父は「自分から出て行くと言うのなら行かせてやる。学費のことは心配するな。」と言ってくれました。
 そして、81.3.23の夜、住むところを探すために母と一緒に埼玉へ向かいました。学校では寮やアパートの紹介がありました。引っ越しの10日前ですからもうぎりぎりです。
 前日夜出たのは、朝早い新幹線に乗っても、大学に到着するのは10〜11時になります。その日のうちに決めるため、少しでも時間に余裕を持たせたかったからです。かと言って、大垣夜行340Mに母を乗せることはためらいがありました。
 他の同級生ならば考え付かなかったであろう手段として、寝台特急「紀伊」を利用しました。まぁ、それに乗じて乗りたかったという思惑がなかったと言えばウソになるでしょうか(笑)
 そして、乗車列車を待つ間に撮ったのがこの写真です。
 当時も運転士さんに向けてストロボを使用するのはNGでしたが、後打ちはダメと言われることはありませんでした。
 向かって左側に停車しているのは急行「きそ」です。機関車はおそらく前出しされていて、撮影できなかったものと思います。
 昨今、コロナウイルスの影響で家計が大きな打撃を受け、進学を断念、あるいは中退する学生さんも少なくないと聞きます。何とか断念せずに済むように私的、公的な支援が差し伸べられたらと願うところです。
 支障なく卒業させてもらった私は改めて両親には感謝したいと思います。


●構内放送(21.2.28)【名鉄1700系の引退に寄せて−2】

2008.6.29ダイヤ改正で定期運用を外れた1600系は2編成が猿投へ疎開。その間、ラストランイベントを実施した。2008.7.19の早朝、舞木検査場入場に先立ち、まずは方向転換のために西枇杷島の三角線へ回送。モ1704 竹村−土橋 6:00頃 21.2.14付本稿では、名鉄1700系最後の1本となっていた1702Fが2.10に舞木検査場へ入場したことを記し、1600系3連時代の末期、8日間だけ西尾線の桜井駅高架新線を走った写真を掲載しました。
 廃車の準備は思いのほか迅速で、2.19の深夜、EL120形に挟まれて大江へ。週明けの2.22、大江から東名古屋港、名電築港の解体場へと搬入されました。
 1.23には舞木検査場で会員制の撮影会が実施された模様がテレビで報じられましたが、3月引退予定と言っていたのに、前倒しになったのか?と疑問の声が出ました。
 過去に詳しい方から廃車後の処理はリサイクル業者さんと契約を行うと聞いたことがあります。その手続きや諸準備、入場から廃車回送までの早さを考えると、撮影会実施以降、急に引退が早まるようなことはなかったと想像しています。
 しかしながら、まだ古さを感じさせない車体が、乗車したことをはっきり覚えているモ1701が、ついこの間まで元気に走っていた1702Fにガスバーナーの火が入れられることは、たいへん辛いことでした。
 さて、今回は2.14付記事で紹介した1600系としての活躍を終えた後、三河線の猿投へ一部の編成が疎開したときの写真を掲載します。撮影日はツイートに記載したとおりです。2コマ載せますが、2コマ目は親ツイートへの返信としていますので、ツイートをクリックしてスレッドを表示させてください。アカウントを取得していなくても閲覧はできるはずです。
 当時は入場待ちやデビュー前にしばしば猿投でその時を待つということが行われていました。今回は詳しい説明を見送りますが、後日、甍ヶ淵駅第2a展示室でできごとを紹介したいと思います。


●構内放送(21.2.14)【名鉄1700系の引退に寄せて

名鉄西尾線桜井駅周辺の高架工事が完成し、08.6.21から新線に切り換えられた。しかし、8日後にはダイヤ改正が行われ、1600系は全車特別車としての活躍を終えた。21.2.10、1700系では最後まで営業運転を続けていた1702Fが舞木検査場に入場しました。当日の午前中、河和往復の特急列車が最終営業になったとのことです。定期検査で入場中であった2213Fが出場し、これに交替して入場かと言われていました。
 1702Fの最近の写真については、既に多くの方が公開されています。碧電としては、1600系時代、思い出深い西尾線での活躍の模様をご覧に入れたいと思います。ここからは本稿の2008.6.21付け記事を引用します。
 (---引用始め---)
 6月の後半、名鉄西尾線ではいろいろな動きがあります。14日に西尾口−西尾の複線化、21日に碧海桜井駅付近の高架切り換え、29日にはダイヤ改正、南桜井駅開業、堀内、桜井の改称、全車特別車特急の廃止といったところが主なものです。
 高架完成からダイヤ改正までの8日間は「碧海桜井」を名乗りますが、短期間の割にはしっかりした看板や駅名標が掲出されていました。また、1600系や1000系全特編成はこの間しか新しい線路を走ることができません。そのこともあってか、真新しい高架と去る者との組み合わせにカメラを向けている方が目立ちました。
 帰りに新駅舎が見えるところに住む伯父を訪ねました。「行き違いの列車が停まりきらないうちに相手が発車していくのは、やっぱり複線になったんだな。」と。(---引用終わり---)
 このとき、1600系は一部特別車編成への組み換えが決まっており、ク1600形は三河線でのラストランイベントを除けば、最後の1週間に達していました。しかし、残った「モ+サ」までもが13年で廃車になるとは思いませんでした。
 伯父も既に故人となり、従弟は皆別の仕事に就いているため、経営していた電器店は閉店しました。なんだか寂しいことばかりです。


●構内放送(20.12.27)【動画:上りSRC 50レをEF210-324が救援牽引】

動画の閲覧はこちらから今年は日頃深夜帯に通過する列車の大幅な遅延が目立っているように思います。スーパーレールカーゴ(SRC)については、7.19付本稿で扱っていますが、12.25、車両故障によって柏原駅で長時間停車ののち、救援機関車に牽かれてそのまま終点東京貨物ターミナルまで運転するというケースが発生しました。到着が21時過ぎになったため、車両の整備(故障車両の差し替えを含む)やコンテナの積み替え時間を考えると、下り列車の遅れが避けられません。推定によれば、25日発51レは4時間ほど遅れて26日未明に発車したとみられます。
 12.25は金曜日で、この日が仕事納めであった企業も多いことでしょう。SRCは速達性が最大の売りの列車ですが、当日の配達が事実上不可能な遅れとなってしまいました。
 鉄道の関係者は最大限の努力を払われたことでしょう。しかし、荷主、エンドユーザーの目線からは、速さ重視なのだから、もう少しなんとかならなかったのかと思わざるを得ません。26日土曜日からは会社が休みで、仮に警備員さんが荷物を受け取っても、年始まで置いておかれることもあり得ます。
 地元の私鉄、名鉄はトラブルが発生した時の対処が早く、巧みであると思います。調整範囲が大きく異なり、比較するのは失礼ではありますが、もし、名鉄さんだったらどうしたであろうかとふと思いました。
 対処の流れとしては、運転士さんから指令所に連絡が行き、検査係員を現地に派遣して状況を把握。それから回復計画が立てられたことと思います。旅客会社3社をまたぐので、ダイヤの調整や荷受け側の手配もご苦労があったことと思います。
 救援機が柏原に到着したのは停止から約半日後です。たとえ無駄になっても救援機をもっと早く送り込むことはできなかったのだろうか。大胆な作戦としては、別の列車の機関車を救援に回せなかったか。応急的に岐阜貨物タまたは稲沢へ持って行けなかったのか。そうできればトータルとして遅延を圧縮できたのではないか。
 列車の商品価値、信用を保つのには課題が残ったように思いました。

●構内放送(20.11.22)【碧電20周年企画:20系客車/カートレイン

碧電20周年企画:20系客車/カートレイン20周年という節目を迎えるにあたって、記念企画を考えていました。ある程度まとまったストックがあり、華やかさがある形式にしたい・・・。そうすると自然に20系客車にたどりつきました。
 同系は1958年に登場し、1997.11.29にEF58150が牽いた「さよなら20系客車」を以て現役を退いています。関西〜九州では末期まで残っていたこともあり、国鉄原色機以外の機関車が牽く列車も撮影することができました。
 C62の「ゆうづる」の時代から撮影されていた先輩諸兄には到底かないませんが、個人的に思い出深いものや、珍しいもののほか、本線上では見られなかった形式も扱いたいと思います。
 本特集の掲載は不定期とします。ハッシュタグ「#碧電20周年」、「#20系客車」を付けることによって、ツイッター上で探しやすくすることを考えています。
 最初はやはり碧海エリアの地元を通った列車にしましょう。貨車に自動車を積み込んで人は寝台車で移動するスタイルであった「カートレイン」は運転開始間もない頃にも撮影していますが、1987年夏に撮ったときには客車と貨車の順番が反対になり、撮影する側としては見栄えがするものとなりました。

●構内放送(20.11.8)【おかげさまで20周年

碧電20周年記念記念早いもので碧電の開設から20年となりました。リンク先オーナー様を始め、サイトを通じてのお知り合いとのお付き合いもずいぶん長くなりました。
 近年はブログ以外に各種SNSが登場して、それしか見ないという方が増えているようです。検索をかけてもなかなか上位にヒットすることはなく、碧電エリアの趣味的な環境もあって、逆風ばかりが強くなっています。そのような背景があって、自ずと閲覧数が低下しています。前回は「男はつらいよ」の話題を取り上げましたが、「在来型ホームページはつらいよ」になってしまっています。
 まだ試行的なものですが、広報およびコミュニケーションツールとして、ツイッターのアカウントを取得しました。今回はツイートをページに埋め込んでみました。
 当初、PCからの閲覧では中央への表示に固定されてしまい、左右がスカスカという見苦しい状態でした。時間切れでアップロードを強行しましたが、ネット上で拾った書式(スタイルシート)を外し、既に使っていたスタイルシートに一部手を入れることによって従来のレイアウトに近づけることができたようです。(ただし、古いブラウザは対応していないので正常に表示されないと思います)
 記念画像はこれまでのような周年の数字ににちなんだ形式ではありません。EF5889号機は分割民営化のおよそ1年前、61号機との重連で名古屋まで来たもので、茶色塗装に復元後はただ1回の来碧です。当時、東北線を拠点とする電暖仕様のEF58が愛知県入りするのは、来るはずのないものが来てしまったというものでした。89号機が61号機と重連で来ると知った時には大いに驚きました。
 何かの節目にと考えて温存してきましたが、20周年記念画像に起用しました。
 今後、当ページのコンテンツの制作は継続しますが、ツイッターも活用しながら運営していく方針です。今後ともどうぞよろしくお願いします。

●構内放送(20.11.1)【取りたてスキャン画像/165系急行「東海」

165系急行「東海3号」平塚−茅ヶ崎 88.2.20映画「男はつらいよ」(フーテンの寅)の第1作の公開から50年となり、デジタルリマスター版が毎週土曜日にBSテレ東で放送されています。知らなかったのですが、原版は35mmネガフイルムだそうです。ネガを洗浄して4K画質でスキャンし、24コマ/秒の膨大な画像を1コマずつレタッチするという気の遠くなるような作業が行われています。クリアな映像は50年前のものとは思えないほどに美しい仕上がりです。
 ネガは情報量が豊富で、デジタルの方が高画質というのは誤った認識であることを知りました。碧電でも古いネガから4K弱の解像度でスキャンしていますが、撮影機材のグレードのほか、現像処理や保管状態、デジタル化の技量いずれもがプロの仕事には到底かないません。デジタルリマスターの寅さんの足元にも及ばないことを思い知らされています。
 寅さんを見てからPCに向かい、ポジのスキャン作業を始めました。記録ノートに167系と書かれている1コマ。そのつもりでスキャンした画像はグリーン車が入っています。前面方向幕の向かって左側は赤文字であることが確認され、列車番号表示から303M急行「東海3号」と判明しました。167系は勝手な思い込みで書いたものでした。
 まともな写真が1コマもないと思っていた急行「東海」、大垣夜行に使用されたグリーン車入りの165系編成が思いがけず見つかりました。

●構内放送(20.10.25)【動画:2004年6月、名鉄名古屋本線富士松周辺にて】

動画の閲覧はこちらから「DV」という規格のビデオカメラを使い始めて20年になりました。それまで使っていた「Hi8」と比べると明らかに画質が向上しているのがわかります。しかし、20年前はテレビが古いブラウン管の14インチというものだったからでしょうか。それほど大きな違いは感じられませんでした。
 20年経ったカメラで撮影することはなくなりましたが、再生は問題なくでき、PCやBDレコーダーに取り込みが可能です。
 今回は2004年6月に撮影した名鉄名古屋本線の列車を公開します。当時の名鉄名古屋本線はというと、空港線の開業に向けて、2000系の試運転が始まっていました。(そちらは既に動画を公開中です)8800系が廃車予定であると沿線で同好の方から聞いて、そのときはまだ信じられませんでした。また、リバイバル色の5500系も翌年の空港線開業の時点で引退するというタイミングでした。
 映っている列車をカットせずにほとんどそのままご覧いただきますが、定期列車のみでも多彩な顔ぶれであったことがわかります。


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