1992年3月、岩手開発鉄道気動車最後の活躍  -津波被害からの復興を願って-

2011.6.19UP

29才の私(1992.3.30 岩手石橋)2011.3.11の大震災では東北地方沿岸沿いの鉄道が甚大な被害を受けました。今は貨物専業鉄道となった岩手開発鉄道も石灰石の輸送先である赤碕付近を中心に津波の被害を受けてしまったようです。
 その岩手開発鉄道は1992.3まで細々と旅客営業を行っていました。たどり着くだけでもたいへんな場所にあり、朝夕だけの営業であったため、苦労して行っても効率が上がりません。それでも最後の機会に訪問しなくてはと思わせるに十分な企画が用意されていました。
 今回は写真1コマごとの解説という形式でなく、「くろがね街道」駅の撮影旅行記の形式としました。テキストは訪問当時の撮影日記を基に構成しました。(2011.6.19)

●行きづらい会社

岩手開発鉄道は1992年3月一杯で旅客営業を廃止することになった。新幹線を使えば(当時住んでいた埼玉県浦和市から)5時間ほどで着くことができるとはいえ、旅客列車は7時台の2往復と、16〜17時台の1往復しかない。ましてや、機能第1で造られた武骨な気動車1両しか来ないのでは、なかなか足が向かなかった。しかし、学生時代から続けている非電化私鉄訪問。ここで行かなかったのでは悔いが残りそうである。そんなとき、レールマガジン103号に掲載されていた同社のガイドを見て、一気に実行へと駆り立てられることになる。

●「動かん君」のキハ301が走る!

4ページからなる同記事の最後のほう3行を見て目を疑った。予備車で滅多に動くことがないキハ301号を最後に走らせる計画があるというのだ。2年ほど前であったか、キハ202号の代替として走ったという記事を見たことがあるが、事前に情報がわかれば最初で最後のチャンスとなる。
 問合せ先が記載されていたため、電話してみた。
 「はい、カイハツです。」地元では「カイハツ」で通じることが感じ取れた。
 この時点ではまだ検討中のため、改めて聞いてほしいという。そして、後日電話をし直して計画を教えていただくことができた。2回とも同じ女性の方であったが、キハ301や202など、車両番号に戸惑うこともなく、すらすらとお答えいただいた。
 それによると、3/18〜24の定期列車に301号を充当。25〜29は202号で5往復運転。30日と最終日の31日はあんなに走っている貨物列車を運休して2両の気動車で10往復するとのことであった。
 早速計画を組んだ。29日の早朝新幹線で一関へ。レンタカーで現地入り。翌日は平日であるが、休日出勤の代休を取得することにした。この2日間であれば貨物列車と旅客列車を存分に撮れる。

(注) 拡大画像はJava Script を使用しています。セキュリティーの設定次第では正常に動作しないことがあります。

●3月29日一ノ関からレンタカーで現地入り

大宮発6:26の新幹線「やまびこ号」に乗車。8:44に一ノ関に到着した。早速駅レンタカーの手続きをする。途中、一部ではあるが、大船渡線沿いを走る。なかなかよいロケーションだ。

説明は写真をクリックキハ100が投入され、画一化されてしまったが、なかなか訪れる機会のない路線だけに、列車が近づいたら撮っておこう。ここは列車の本数が少ないため、1本逃すとロスが大きいのである。
 撮影ポイントをメモしなかったため、どこで撮ったのかを失念したが、2コマ撮れた。
 レンタカーは手続きが終わるといきなり一般道路を走らなくてはならないが、アクセルの感覚がつかみづらい車に時々当たる。今回もそのようで、電柱にぶつけそうになってひゃっとする一幕があった。車を運転するのは年に数回なので慎重に行かなくては。

国道340号線を進み、終点、岩手石橋側から岩手開発線沿線に到着した。ローカル私鉄はか細い線路をよたよた走っているイメージがあるが、ここは砕石輸送の貨物列車が昼夜を問わず頻繁に走っているせいか、極めて立派な線路だ。
 岩手石橋へ到着する列車は一旦駅を通り過ごし、スイッチバックして入って来る。その手前には有名なS字カーブがあり、数名のファンがカメラを構えていた。
 貨物列車を撮影。機関車がやたら汚いのは少し残念。駅で臨時列車のダイヤをメモして長安寺までロケハンする。

駅には学生風の同業者が3人いた。盛から歩いて来たという。まだ先を目指すというので、「よかったら乗って行きませんか。」と誘ってみた。疲れが見える3人は皆「これは助かった!」という顔をしている。私も学生時代は社会人の方のご厚意に甘えさせていただいたことがあるが、今度は私が若い人のお世話をする番だ。

制御方式が異なる2両が協調運転

説明は写真をクリック石橋のSカーブへ戻った。次の貨物はまたしても汚いDD5651号機だ。しかし、本数が多いので次を待っても知れている。もう1両のDD5653号はきれいな状態で、気動車が来る前に撮れた。
 他のファンの方と話していると、旅客列車は2両編成だという。キハ202の単行だと聞いて来たが、多客対応のために増結したのだろう。
 側面には大きなお別れ看板が付いているという。何もない自然体を撮りたかったが、それは贅沢というものだ。臨時3003レを撮影し、折り返し3004レは場所を移動することにした。


説明は写真をクリック 説明は写真をクリック 説明は写真をクリック
 日頃市−長安寺には川沿いの撮影地がある。ガイドには出ていないポイントで、ここに決める。早く301号を撮りたくて、キハ202号には悪いが、301号の側ばかりを狙うことになる。
 慌てることもなく、盛へ向かって走ったら追い抜いてしまった。決して余裕はなかったが、猪川を出たコンクリート橋でもう一度撮れた。後ろのキハ301もヘッドライトを点灯しているのはご愛嬌か。

開発鉄道の本社ではテレホンカードを販売しているため、3人も一緒に立ち寄ることにした。他にも大勢のファンが訪れていた。応対している女性の方は声ですぐに電話での問い合わせにお応えいただいた方だとわかった。ここは運賃があまりに安いため、少々切符を買ったところで売上貢献にはならない。感謝の意味を込めてテレホンカードや硬券乗車券を買った。そして、ここで3人と別れた。(この中の一人、Tさんとはその後も各地でお会いし、交流が続くことになる。)


●定期列車に乗車

説明は写真をクリック 日頃市−長安寺のポイントへ戻る。障害物がなく、すっきり撮れる好ポイントである。ここで貨物列車を撮影する。この頃になるとさすがに露出が下がって来たため、夕方一往復の定期列車5レ〜6レには乗ってみることにしよう。
説明は写真をクリック 盛は市街地であり、車を止めておくことは難しいため、長安寺で5レを待つ。この列車も2連でやってきた。キハ202は一般的な液体式であるが、キハ301は貴重な生き残りとなった機械式、すなわちマニュアルシフト車である。当然総括制御ができないため、各々運転士が乗っている。タイフォンを合図に加速を行う協調運転である。せっかくなのでキハ301号のほうに乗る。キハ301はギアをシフトするたびにエンジン音が変わり、マニュアル車であることを実感した。


説明は写真をクリック室内燈は白熱電球で、薄暗さがなかなかよい雰囲気だ。盛側運転台の背面には夕張時代の名残らしい北海道の地図が貼られたままになっている。地図にはもうとっくに廃止になっている○○拓殖鉄道といった類もあって驚いた。

岩手石橋の手前でスイッチバックし、ホームへ入る。到着後、転換クロスシートを転換した。これも夕張時代のものであるが、当時としてはデラックスな座席はこの車が造られた当時の炭鉱鉄道の盛業を物語っていた。
 折り返し6レは長安寺まで乗車。車でホテルへ向かった。今夜の宿は「ホテル橋本」。ガイドブックに出ていたホテルでは盛地区唯一のもので、予約する時はもう満室になっているのではないかとひやひやした。フロントで尋ねてみると、やはり開発鉄道を訪れるファンがたいへん多いとのことであった。

●3月30日、朝から雨 --沿線住民の思い入れ--

説明は写真をクリック6時起床。定期列車を撮るにはこれくらいには起きなくてはならない。予報どおりの雨なのは残念。6:30にホテルを出て、日頃市へ向かった。1レはお客さんが多ければ2両にすると本社で聞いたが、残念ながらキハ202号の単行であった。
 駅では地元のおばさんが清掃をされていた。聞けば掃除は毎朝されているそうだ。
 やはりこの鉄道を「カイハツ」と呼んでいらっしゃる。訪れるファンについても聞かせて下さった。本数が少なく、不便なところだけあって、時には早朝の列車を撮るため、いわゆる「ステーションホテル」(=駅寝)をしている人もいたそうだ。雪が降るほどの厳冬期には見かねてご自宅に泊められたこともあるという。もう20年ほど乗ったことはないというのに毎日の清掃を欠かさない地元の方。やはり「カイハツ」は地域の人々にとって思い入れのあるものなのだろう。
 そういえば、この駅のトイレは閑散無人駅とは思えないほどきれいになっていた。

まだ暗く、まともに撮影できないため、4レ〜臨時3001レの長安寺−盛間を乗車することにした。往復ともキハ202号の単行である。気動車は起動し、スピードが上がると変速段から直結段に切り換えるのが普通である。しかし、キハ202号は変速段のまま走っている。長安寺で降りる際、運転士さんに聞くと、ダイヤが寝ている(スピードが遅い)ため、直結段に入れるほどのスピードに達しないとのことであった。


説明は写真をクリック盛発10:00の臨3003レからキハ301号が運用を開始する。長安寺の手前で撮影後、岩手石橋までの間にさらに2回撮れた。おおよそ1時間に上下1本の運転のため、どんどん撮れる。息をつく暇もないほどだ。日中は旅客列車が全くない定期ダイヤであればこうはいかない。


説明は写真をクリック 岩手石橋付近には鉱山、駅、スイッチバック(直接は見えない)が一望できるポイントがある。歩いて登ったのではたいへんであるが、車ならば苦労はない。せっかく何本も走るのであるから、追い掛けして数を稼ぐよりもいろいろなアングルから撮ってみよう。
 そろそろキハ301号が来ると思った頃、追い掛けをしてきた同業者がやってきた。そして、最悪のところに車を止められてしまった。相手はこちらの存在に気づいていない。車を避けようとして中途半端なアングルになってしまった。せっかく手前に川が入ったのに、悪い夢でも見ているようだ。
説明は写真をクリック 坂道を徒歩で上られているファンを見掛け、帰りは駅までお送りしましょうかと声を掛けたが、固辞された。逆の立場であれば「すみません。助かります。」という状況だったのであるが・・・。沿線の空気を愛でることに徹したかったのかも知れない。それがおろそかになってしまうことが車を利用した撮影のマイナス面ではある。
 山の上からの撮影は歯車がかみ合わずに終わった。


説明は写真をクリック 次第に雨が小降りになって、空も明るくなってきた。これならばASA100でも撮れそうだ。2台のカメラに100と400の2本のフイルムを入れ、使い分けていた。
 単調な写真になるのを避けるため、川沿いを走る区間では好んで川を入れて撮った。しかし、雨天のため、濁流になってしまったのは少し残念だ。
説明は写真をクリック 終点の岩手石橋駅周辺は民家もまばらで、お客さんはどこから来るのかという感じだ。古めかしい駅舎には単行の気動車がよく似合う。駅名票の空欄側から列車が近付いて来るのはスイッチバックのためだが、それを意識している人はどれだけいることだろうか。
 一ノ関まで帰ることを考えて、キハ301号最後の便はパスしようかと思ったが、パスしなかったのに気付いたのは同列車が石橋を出る前であった。それほどまでに夢中で撮影を続けていた。そして、3012レにて撮影終了としたが、まだ名残り惜しい気がした。
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●帰路へ

天候には恵まれなかったが、初日は貨物列車のほか、思いがけずキハ301と202の2連が撮れた。2日目は日頃は旅客列車が1日3往復しか走らない路線とは思えないほどに存分に撮影できた。
 帰りは往路とは経路を変え、国道343号線を通った。道路がよく整備されており、たいへん順調に進むことができた。そして、17:30過ぎに一ノ関駅レンタカー営業所に無事到着した。返車手続きを終えてふと時刻表を見ると、上り「やまびこ」が出るところであった。次の列車は65分後である。しかし、結果的には夕食をゆっくり食べる時間を取ることができた。
 18:53に一ノ関を発車。車内はほどほどに空いていた。そして21:10大宮着。埼京線の通勤快速で武蔵浦和へ。自宅までの遊歩道の桜がこの2日間でかなり開いていた。


●あとがき

岩手開発鉄道の訪問は今のところこの時限りです。2両の気動車は長らく保管されていましたが、結局解体されてしまいました。同社が旅客営業を行っていた証の1つがなくなってしまったのは残念です。
 撮影日記には現地への往復の経路が細かく書かれておらず、どんな道を通って来たのか記憶がありません。復路は長安寺で撮影を終えて、国道343号線を経由したとあることから、2011.3の震災で大津波の被害を受けた大船渡や陸前高田を通って来たはずです。当時の職場のスタッフはよくお酒を飲んだため、おつまみになるようなお土産をどこかで買ったと思われますが、どこへ立ち寄ったのかも覚えていません。結局通って来ただけに近いのですが、改めてお見舞い申し上げたいと思うところです。
 岩手開発鉄道は貨物専業となり、直接支援する手立てがありません。もう年月が経っていますが、親切にして下さった鉄道の皆様はどうされていることでしょうか。それでも2011年11月にセメント工場が再開を目指しているとのこと。同鉄道もそれに合わせた運行再開を目指しているとの報に触れ、再び活気みなぎる鉄道に甦ってほしいと願わずにはいられません。

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