関東鉄道筑波線が1979年に分離独立し、その名のとおり筑波山の麓を走る鉄道でしたが、国鉄最後の日となった1987年3月一杯で廃止されてしまいました。
当線では古くから筑波山への観光客輸送列車として上野から直通の臨時「筑波」が春秋に運転されていました。客車は12系6両編成が主体でしたが、リクライニングシートの14系が使用され、乗客を喜ばせたこともありました。
牽引に当たっていたのはDD501号で1954年製造という古いものでした。国産のディーゼル機関車の歴史は浅く、この頃はまだ試作が繰り返されていた時代です。450馬力という出力は当時としては大形の部類でした。とはいえ、JRでは一般的なDD51形の1/5にしかすぎない出力で6両もの客車を牽引できたのは、沿線にこれといった勾配がなかったためと思われます。 同機は鹿島鉄道のDD901同様ロッド式で、そのユーモラスな走りっぷりがファンの人気を呼んでいました。
この鉄道は東京から近かったにもかかわらずローカル色豊かで、昭和一ケタ生まれのキハ461号や荷台付気動車キハ541号などがファンの注目を浴びていました。私が訪れた1983年5月もこれらの車両を総動員させて観光客をさばいていましたが、この時はまさか鉄道自体が廃止されようとは思いも寄りませんでした。
当線はレールの継ぎ目の間隔が短いため、単行でも「トトン、トトン」というジョイント音を忙しく刻みながら走っていました。筑波鉄道の名を聞くと、今もローカル味溢れるそのリズムと共に、古ぼけたディーゼルカーが脳裏を駆けめぐります。(1991年記、2000.10一部追記)
現在のJR湖西線に沿って走っていた江若(こうじゃく)鉄道最後の自社発注車として誕生した車です。同社は路線が長く、保有車両数も多かったため、非電化私鉄西の雄といわれましたが、東の雄、関東鉄道に移籍したのは何かの縁だったのでしょうか。私よりも若い1963年生まれですが、側面窓がいわゆるバス窓です。それだけで古めかしい印象を受けます。決して格好いいとも美形とも言えませんが、個性的なスタイルはローカル私鉄の魅力ですね。
記録ノートにはこの日往路乗車したのは満員の同車であったとの記載があります。
沿線での撮影は初めてだった83.5.3の朝、上野駅でたまたまお話ししたお二人も筑波鉄道へ行かれることがわかり、ご一緒させていただくことにしました。お名前も年齢も聞きませんでしたが、お勤めとのことで、おそらく私よりも10才くらい年長の方々とお見受けしました。腸が弱い私は常磐線の車内で腹痛に見舞われ、混雑する人をかき分けてトイレへ向かいました。お二方が「大丈夫ですか」と心配して下さいました。
ローカル私鉄を訪れる方は当時さほど多くはなく、近年のようなファン同士、地元住民の方々とのトラブルはほとんど経験がありません。沿線風景も相まって、のどかそのものでした。現地でお会いした同好の方も含めてよい方ばかり。天気に恵まれたこともあって、とても楽しい1日だったことが懐かしく思い出されます。
ご一緒させていただいたお二人はもう定年を迎えられた頃でしょうか。(19.12.20)
沿線撮影初訪問からちょうど1年の日は東北本線や高崎線で撮影をしていて、顔見知りのKさんに会いました。「今日は14系が入っているらしいので筑波へ行きましょう。」と強く主張していたのはKさんに同行していたこの日初対面の坂本さん(泡沫軌道部)でした。あまり積極的でなかった当方の運転手NさんもKさんも坂本さんの熱意と好天に「行ってみようか!」ということになりました。東北本線でEF58+20系の急行を撮るだけのつもりだった私は筑波鉄道は眼中にありませんでした。
雲一つない快晴でもいくらかの霞が生じているものですが、この日はほんとうに抜けるような青空でした。前年のようにキハ461や541の出動はありませんでしたが、めまぐるしくロッドを上下させて力走するDD501にKさんは大満足。ついていっただけの私ものんびりと撮影を楽しませてもらいました。
前年よりも気動車の編成が短く、やや活気が失せているように感じられました。
沿線で同好の方からは廃止計画の噂があると聞きました。前年の盛況なイメージが強かったため、そのときは冗談にしか聞こえませんでした。
しかし、その後「筑波」の運転は終了。1987.3.31限りでほんとうに全線廃止となったため、結局この時が最後の撮影となってしまいました。