■筑波鉄道

02.2.3 更新(19.12.20追記)

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関東鉄道筑波線が1979年に分離独立し、その名のとおり筑波山の麓を走る鉄道でしたが、国鉄最後の日となった1987年3月一杯で廃止されてしまいました。
 当線では古くから筑波山への観光客輸送列車として上野から直通の臨時「筑波」が春秋に運転されていました。客車は12系6両編成が主体でしたが、リクライニングシートの14系が使用され、乗客を喜ばせたこともありました。
 牽引に当たっていたのはDD501号で1954年製造という古いものでした。国産のディーゼル機関車の歴史は浅く、この頃はまだ試作が繰り返されていた時代です。450馬力という出力は当時としては大形の部類でした。とはいえ、JRでは一般的なDD51形の1/5にしかすぎない出力で6両もの客車を牽引できたのは、沿線にこれといった勾配がなかったためと思われます。 同機は鹿島鉄道のDD901同様ロッド式で、そのユーモラスな走りっぷりがファンの人気を呼んでいました。
 この鉄道は東京から近かったにもかかわらずローカル色豊かで、昭和一ケタ生まれのキハ461号や荷台付気動車キハ541号などがファンの注目を浴びていました。私が訪れた1983年5月もこれらの車両を総動員させて観光客をさばいていましたが、この時はまさか鉄道自体が廃止されようとは思いも寄りませんでした。
 当線はレールの継ぎ目の間隔が短いため、単行でも「トトン、トトン」というジョイント音を忙しく刻みながら走っていました。筑波鉄道の名を聞くと、今もローカル味溢れるそのリズムと共に、古ぼけたディーゼルカーが脳裏を駆けめぐります。(1991年記、2000.10一部追記)


DD501+12系「筑波」
念願叶って筑波鉄道DD501の12系を初ショット。

 大学へ入学した1981年のゴールデンウイークに訪問を考えていましたが、アルバイトをすることになって断念したところ、その後に実施された土浦駅の工事のために翌1982年は「筑波」の運転が中断されてしまいました。
 2年後の1983年、やっと初訪問を果たすことになりました。この頃、一般的には12系6連が使われていました。

キハ761
北海道の雄別鉄道出身のキハ760型。

 北海道の雄別鉄道から来た車です。国鉄のキハ21形と同時期の製造で、車体はよく似ています。しかし、写真でははっきりしませんが、台車は旧式の菱枠形であることが異なっていました。

キハ541
荷物バケット付き、元北陸鉄道のキハ541

 元北陸鉄道の荷台付き気動車です。製造されたのは比較的新しいのですが、バケットが付いているだけで古めかしい印象を受けます。
 ふだんはあまり動いていなかったようですが、多客時には増結用として出動しました。

キハ503
筑波鉄道では近代的なスタイルであったキハ503。

 常総筑波鉄道時代に新製された形式で、総括制御が可能となるなど、当時の同社としては画期的な車両でした。一時期は岩瀬から水戸線経由で小山まで乗り入れていた実績もあります。
 501、502は空気バネ付き台車で製造されましたが、後に504、505と互いにナンバーを入れ替え、空気バネ付きの504、505は別形式扱い(キハ504形)となりました。
 501と502はロングシート化されて常総線へ転出しましたが、503〜505は最後まで筑波線で過ごしました。

キハ511
西の非電化私鉄の雄、江若鉄道からやってきたキハ511。

 現在のJR湖西線に沿って走っていた江若(こうじゃく)鉄道最後の自社発注車として誕生した車です。同社は路線が長く、保有車両数も多かったため、非電化私鉄西の雄といわれましたが、東の雄、関東鉄道に移籍したのは何かの縁だったのでしょうか。私よりも若い1963年生まれですが、側面窓がいわゆるバス窓です。それだけで古めかしい印象を受けます。決して格好いいとも美形とも言えませんが、個性的なスタイルはローカル私鉄の魅力ですね。
 記録ノートにはこの日往路乗車したのは満員の同車であったとの記載があります。

キハ461
元国鉄キハ04のキハ461がやってきた。

 1934年製、元国鉄キハ41056(〜キハ048)です。遠州鉄道、北陸鉄道を経由して入線し、キハ461となりました。当時50才に迫る古豪はファン注目の的でしたが、この頃はめったに稼働することはないと言われていました。
 訪問当日の朝、車庫で姿が見えなかったため、動いていることを期待していました。まだかまだかと待っていたところ、思いがけず土浦側(車庫のある側)からやってきました。
 キハ461はこの年の稼働以降営業運転に使われることはなかったようです。

沿線での撮影は初めてだった83.5.3の朝、上野駅でたまたまお話ししたお二人も筑波鉄道へ行かれることがわかり、ご一緒させていただくことにしました。お名前も年齢も聞きませんでしたが、お勤めとのことで、おそらく私よりも10才くらい年長の方々とお見受けしました。腸が弱い私は常磐線の車内で腹痛に見舞われ、混雑する人をかき分けてトイレへ向かいました。お二方が「大丈夫ですか」と心配して下さいました。
 ローカル私鉄を訪れる方は当時さほど多くはなく、近年のようなファン同士、地元住民の方々とのトラブルはほとんど経験がありません。沿線風景も相まって、のどかそのものでした。現地でお会いした同好の方も含めてよい方ばかり。天気に恵まれたこともあって、とても楽しい1日だったことが懐かしく思い出されます。
 ご一緒させていただいたお二人はもう定年を迎えられた頃でしょうか。(19.12.20)


●陰りが見えてきた1984年

沿線撮影初訪問からちょうど1年の日は東北本線や高崎線で撮影をしていて、顔見知りのKさんに会いました。「今日は14系が入っているらしいので筑波へ行きましょう。」と強く主張していたのはKさんに同行していたこの日初対面の坂本さん(泡沫軌道部)でした。あまり積極的でなかった当方の運転手NさんもKさんも坂本さんの熱意と好天に「行ってみようか!」ということになりました。東北本線でEF58+20系の急行を撮るだけのつもりだった私は筑波鉄道は眼中にありませんでした。
 雲一つない快晴でもいくらかの霞が生じているものですが、この日はほんとうに抜けるような青空でした。前年のようにキハ461や541の出動はありませんでしたが、めまぐるしくロッドを上下させて力走するDD501にKさんは大満足。ついていっただけの私ものんびりと撮影を楽しませてもらいました。
 前年よりも気動車の編成が短く、やや活気が失せているように感じられました。
 沿線で同好の方からは廃止計画の噂があると聞きました。前年の盛況なイメージが強かったため、そのときは冗談にしか聞こえませんでした。
 しかし、その後「筑波」の運転は終了。1987.3.31限りでほんとうに全線廃止となったため、結局この時が最後の撮影となってしまいました。

キハ821
元国鉄キハ1047のキハ821

 元国鉄キハ1047です。このページを記した2002年には、茨城交通(→ひたちなか海浜鉄道)でしか見られなくなってしまったキハ10系はファンには人気がありました。1970年代後半以降、国鉄から引退が進むとローカル私鉄への進出が進みました。その結果、それよりも古い車両達が引退に追い込まれてしまったため、 当時個人的にはあまり歓迎していませんでした。

キハ811
抜けるような青空の下、快走するキハ811の単行。

 キハ760形同様、雄別鉄道からの譲渡車です。側面窓が1段になったため、国鉄のキハ22に似ています。前年の訪問時にキクハ11を除くひととおりの形式を撮影していたため、たまには流し撮りでもしてみようというゆとりが生まれました。写真をサークルのメンバーに見せると「おまえにしては珍しい写真だな。」と言われたものです。

DD501+14系「筑波」
快晴の下、DD501が14系を牽いて筑波を発車した。

 最も有名だった筑波山バックのアングルです。このシーズンは12系に代わって14系客車が使用されました。快晴の下、一応特急にも使われる客車をロッド式の小型機関車が牽引するというなんともアンバランスな列車が走りました。

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