2019.04.07開設

構内放送ログ(保存版)

構内放送ログは半年で公開終了としていましたが、閲覧数が多いものや、数自体は少なくても、検索などで長期にわたって閲覧数が伸び続けている記事は需要があると判断して掲載を継続します。



普通 ホームタウン

路線図に直帰される方はご利用下さい。


●構内放送(18.9.2)【母校の鉄研40周年/怪我した写真がここまで回復】

小さな森を抜けて工場へ戻る2号母校、芝浦工大の鉄道研究会が創立40周年になりました。記念団臨に参加した後輩たちは解散して今頃はもう自宅へ戻っているでしょうか。
 私が現役最初の夏合宿(金沢)に参加したのは1981年7月でした。この機会に新潟県糸魚川市の東洋活性白土という会社を訪問したいと思っていました。同社には610mmゲージの専用線があり、当時では国内最新にして最後の産業用SL(保存目的ではなく、製品輸送用)が走っていました。毎日の運転ではなく、問い合わせると「走るのは明日で、そのあとはしばらくない。」と言われ、その夜の急行「きたぐに」に乗って駆け付けました。
 北陸本線沿いの積み替えホームからの復路を小さな林の中で待っていました。雰囲気がよく、撮りたかった場所でした。
 写真が仕上がってみると「あちゃ〜。」光線漏れで赤くかぶっています。富士のフイルムは1コマ目でしばしばこんなことがありました。他のメンバーからも「もったいない!」と言われました。
 療養生活中、写真修復にも取り組んでいます。この写真については、赤だけを色相変換して緑色に。問題は機関車の周囲に僅かに写る煙まで緑色になってしまうことです。しかし、SLや煙は都合がよいことにグレーの濃淡です。色の情報を消す。つまりは白黒に近づければよいのです。やってみると容易に非修正部分となじんでくれました。こうして諦めていた写真が蘇りました。修復後の写真はこちら。

●構内放送(18.8.12)【車籍復帰したEF58157-お盆の帰省時に復活後初撮影-】

1988年に車籍復帰したEF58157。東海会社のEF58が2両に。リニア鉄道館に保存されているEF58157。この機関車の価値が早くから認められて残されていたというよりも、1984年3〜4月のEF58→EF62への置き換え後もたまたま残されていたことで運命が変わったということができましょう。
 EF62への置き換え時、84.2にEF58が各所属区から下関へ集められ、EF62の運用に暫定的に投入されました。157番も下関へ移って国鉄時代最後の活躍をし、EF62へバトンタッチして元所属区の浜松へ戻ってきました。当時の鉄道ファン誌では下関の運用担当者の親心で元所属区に極力帰すように配慮されたとドラマの筋書きのように仕立てられていました。
 しかし、これは親心でも何でもなかったのではと思えてきました。どうやら、引退したEF58は下関へ移籍する前に所属していた鉄道管理局の予算で廃車の手続きが行われる取り決めだったようなのです。
 東京機関区所属のEF58は「シナ座」の暖房蒸気供給のため、3両残されることになりましたが、61番以外は全て廃車になり、浜松機関区から93番と160番が転入しました。ファンの間では不思議がられたものですが、これは、元浜松区の両数が多かったため、静岡鉄道管理局の廃車費用負担を軽減するのが目的であったと言われています。
 その後も157番は解体されずに体験運転などに使われていましたが、再び本線上で見られるとは思いませんでした。EF58は軌道が脆弱な飯田線北部へも入っていけます。南北直通の工臨、団臨の牽引に活路を見出すことになります。

●構内放送(18.7.29)【1灯ライトのEF60が牽くスロ81系”シナ座”】

中野を通過するEF60502(八)牽引のスロ81系「シナ座」療養室生活が今日夕方で1ヶ月となりました。予想外でしたが、なかなか100%順調とはいかないものです。
 さて、療養生活中も更新ができる体制を維持しようと考えていましたが、最初は画像編集もままならず、プリインストールのアプリでは縮小の方法がわかりませんでした。
 そこで、画像の縮小については裏技を用い、スマホでメールを送信する際に添付ファイルのサイズを聞いてきますので、50kb以下を選びました。いつものサイズよりやや小さめですが、使えると判断して撮影日も調べて準備しておいたものです。
 6/10にアップした「ミト座」がまだ品川に配属され「シナ座」と呼ばれていたころからこの客車を好んで追い掛けていました。学生だった1983年、廃車が続々発生していたEF58との組み合わせが人気でしたが、私はそれ以外の機関車との組み合わせも極力撮っていました。
 中央線の八王子まではEF64ではなく、EF60が使われることがしばしばありました。八王子機関区のEF60はその多くが500番台の元ブルトレ牽引機でした。暖房電源はありませんが、冬場以外は問題ありませんでした。EF65と見分けがつかない4次型やヘッドライトがシールドビーム2灯化されているものが来たらハズレ。写真の502号はライトが1灯で当りでした。この502号の団臨はなぜか何度も撮るチャンスがありました。
 同じEF60の19号機はいまだ健在で、502号の倍以上生きていることになります

●構内放送(17.12.10)【身延線「レインボー」】

EF65一般形に牽かれて身延線をゆく「スーパーエクスプレスレインボー」30年前の今頃は、東京赴任から1か月少々という時期でした。帰宅がそこそこ遅くなるため、途中下車して夕食を食べられるお店の開拓を続けていました。今もお店のおいしかった料理や、マスターの顔を思い出します。
 年内業務があと半月になった頃、身延線に「スーパーエクスプレスレインボー」が入るとの情報が入りました。当時、東海道線(東日本)の団臨は大半がEF65PFの担当でしたが、東海会社のEF65一般形が予定されているといいます。しかも、途中の沼津あたりで付け替えるのではなく、品川から身延線内まで通しの運用とのことです。
 分割民営化によって会社またぎの団臨は激減しました。それをEF65PF以外の機関車が牽き、レアな路線へ。しかも、土日に走るのはたいへん貴重な機会でした。
 この年は青春18きっぷの使用開始が早く、18きっぷを使って身延線内の超定番撮影地、波高島−下部へ行きました。
 当時はEF65一般形はさほど注目されておらず、現地はマッタリしていたと記憶しています。

●構内放送(17.11.12)【古いネガから/営団6000系二次試作車6101F】

松戸に停車中の営団6101F 当時は非冷房車だった。今回は題材に困りました。何の脈略もありませんが、最近スキャンした古いネガから備忘録的に1コマをアップします。
 古いネガをスキャンしながら当時の記録ノートを見ていると、「おや?こんなの撮っていたんだ・・・。」と思うものが時々あります。撮ったことはすっかり忘れてしまっています。
 この写真は別の列車を目的に常磐線の松戸へ行ったときに撮ったものです。量産車よりも裾が長い特徴から、試作車編成であることに気づいたのでしょう。
 この編成について調べてみると、製造は1969年。2016年のGW明けまで走っていたとのことです。つい最近まで残っていたのですね。
 一般的に試作車は量産車とは保守部品が異なって整備に手を焼くため、現場で敬遠されることが多いと思います。さらには、小田急線直通の運用には使用できない使い勝手の悪さがあるにも関わらず、異例ともいえる長寿です。
 ここまでならば「へぇ〜。」でおしまいですが、驚くのはまだ早い・・・。50年近い経年にも関わらず、まだ電車としての役目は終わりません。なんと、インドネシアへ渡って再起したとのことです。輸送力増強が喫緊の課題で、古い車でも欲しいという事情がありそうです。ネット上では現地を走る動画もアップされています。冒頭に書いた「備忘録」とは、その驚きを残しておきたいという意図があります。
 この頃は卒業研究のため、学外の施設へ通っていました。営団千代田線はよく利用したものです。しかし、6000系初期車は窓が小さく、シートも硬いため、居住性はよくありませんでした。

●構内放送(17.11.5)【おかげさまで17周年】

美濃関に到着するキハ17形2連。交換線撤去、こ線橋使用停止はローカル線でよく見られた。早いもので、今年も周年のご挨拶をする時期となりました。昨年は紀州鉄道のキハ16。「17」という形式でストックの中から選定すると1種類しかありません。〇〇形の17番というのも考えましたが、唯一の17形を外す理由もなく、素直に決めました。
 高校1年生だった1978年の夏、大垣から近鉄養老線(揖斐線)、近鉄バス、名鉄揖斐線、岐阜市内線、美濃町線と乗り継ぎ、終点美濃から新関へ折り返した後、国鉄越美南線〜高山線で鵜沼まで戻りました。ほんとうにいろいろな種類の車両に乗ることができました。
 当時、キハ40系の増備により、キハ10系は全国的に淘汰が進んでおり、このときがキハ17最初で最後の乗車の機会でした。はっきりした記憶がありませんが、思ったよりもスピードが出ていたと思います。暑い1日でしたが、車内を通り抜ける風が涼しく感じられました。

●構内放送(17.10.29)【30年前シリーズ/関東引っ越しを前に参宮線へ】

東海会社のDD51に牽かれて参宮線をゆく20系「ホリデーパル」。最上段の帯が消され始めていた。 30年前の今頃はといえば、引っ越しの準備をいそいそと進めていました。名古屋の職場を離れ、11月から東京の本社勤務となったためです。時はバブル前期の人が欲しい時期。地方の支社から人が集められていました。
 10/18は参宮線で20系「ホリデーパル」が走る計画があり、仲間に声を掛けましたが、都合が悪い人が多く、Hさんと2人だけになりました。
 今年は雨ばかり降る異常さですが、30年前のこの日はこの季節らしい好天に恵まれました。
 伊勢市から鳥羽までの回送列車を撮ったあと、地図を見て、撮れたらもうけくらいのつもりで訪れたのが多気−外城田のアウトカーブでした。ここは今でも参宮線の定番撮影地ですが、当時は撮影適地であることを知りませんでした。
 撮影を終えてHさんを送っていくと、私が海外へでも行くかの如くとても寂しがりました。Hさんにとって私はやっとできた鉄友だったそうで、反対の立場だったら同じ気持ちになったことでしょう。
 しかし、彼は自ら調べて行動する能力も身に着け、交友関係を広げていきました。お互いに撮りたい対象が大きく減ってしまった昨今、機会は減りましたが、今も交流は続いています。

●構内放送(14.4.20)【国鉄・JR 悲運の車両たち

「国鉄・JR 悲運の車両たち」(寺本光照氏/JTBパブリッシング刊)を購入しました。単行ものとしては久しぶりに買ったものです。
 何も車両の悲運を喜んでいるわけではありません。量産され、当たり前の存在の車両たちが数多くいることが前提にはなりますが、その中にあって、珍しいものや、なかなか見られないものを記録したいという思いは、鉄道趣味を続ける大きな動機、力になってきました。本書はその欲求に叶うところがあると言えます。
 年少のため、手が届かなかったDD50やDD54など、なくなって悔しかった車両については、期待どおり収録されている一方では、碧電で出世車両に認定した「エーデル」が悲運の仲間にされてしまうなど、視点を変えるとこんなにも評価が違うものかというものもあります。
 こうなっていれば本来の活躍ができたのではないかと各所で述べられている私見は賛同できるところが多く、なぜ悲運なのかの演出表現についても面白く読ませていただきました。
検見川浜に到着するE331系の快速蘇我行 本書では本文で簡単に触れられているだけですが、廃車、解体のために長野へ送られた以降に刊行されていればメンバーに入ったであろう、E331系を挙げておきましょう。同系には一度だけ乗車、撮影する機会がありました。とりあえず後悔せずに済んだものです。
 また、同車が新製されたときの甲種輸送も撮影しています。

権現港駅本屋へ戻る


碧海電子鉄道©2000-2018 鈴木雄司(トップページへ)

inserted by FC2 system