■鹿島鉄道

2004.10.23 UP、2020.5.25 古い記述を修正

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●2007年3月末で全線廃止

2000年代に入ると少子化による通学生の減少などにより、利用者の減少は深刻な状態になっていました。また、自衛隊百里基地への航空燃料輸送の廃止も大きな減収要素となりました。廃止に危機に対して利用者である高校生たちが立ち上がり、存続運動を起こしたこと。再生請負人とも言われる岡山県の両備グループは沿線住民の存続に対する関心が低く、再生を引き受けないという決断を下したことが思い出されます。
 以下は母校である芝浦工業大学鉄道研究会会誌「停車?」NO.7(1991年)に掲載の「国鉄(JR)の客車による他社線乗り入れ列車の記録」を2004年にリライトしたものです。その後、明らかに変わっている事項について修正を行いました。


関東鉄道から1979年に分離された鉄道です。私が学生だった1982年頃、当社には2両のディーゼル機関車が配置され、自衛隊百里基地向けのジェット燃料輸送のタンク車を牽いていました。
 当駅のテーマである「名物客車列車」は沿線の幼稚園、保育所の集団遠足列車「パンダ号」です。上野までの日帰りの行程で年に数回運転されていました.


●重連!パンダ号

客車は通常12系6両編成でしたが、私が訪問した1984年5月16日は9両編成で計画されていました。当日朝石岡に降り立つと2両のディーゼル機関車が両方とも見あたらず、「おやっ?」と思いました。鹿島鉄道に乗り換えると各駅にわざわざ「パンダ号運転」の貼紙があり、その駅の通過予定時刻と共に「客車10両、一部区間機関車2両」とあって驚きました。


初訪問は1982年
初訪問時に撮影したキハ432。まだ常陸小川でも貨物を扱っていたようです。

鹿島鉄道の初訪問は1982年8月でした。とにかく茨城の非電化私鉄へ行きたいと、鹿島鉄道と筑波鉄道を超駆け足で回りました。鹿島鉄道は思いつきで常陸小川まで乗車し、次の上り列車で引き返しました。
 走行写真はこの1コマしか撮っていませんが、後ろにつながるキハ411+412は次の訪問時には廃車になっていました。

撮影場所を求めて
前面が改造されてはいるが、国鉄キハ07の生き残りとして貴重な存在。

ここからは重連パンダ号の当日です。
 鉾田−榎本間と聞いた重連区間は車掌さんから全区間に変更されたと聞き、玉造町で慌てて下車。長編成が入る開けた場所までひたすら歩きました。浜−八木蒔間まで戻ってやっと満足な撮影場所が見つかりました。

元三井芦別のペアがゆく
元三井芦別のキハ713+キハ712

国鉄出身ではない気動車は三井芦別、夕張、加越能の3社から来たものがありましたが、いずれも正面2枚窓の湘南スタイルであるのは興味深いところです。湘南フェースがいかに地方まで浸透していたかを物語っています。

通常は2両のうち新しい方のDD902号が単機で牽引していましたが、10両もの長大編成となっては沿線に点在する勾配区間でどうしても遅れが出てしまうため、当時もう一両あったDD901号も駆り出されることになったのでした。
このDD901号、番号は1番違いながらスタイルは大きく異なり、SLのようなロッド式駆動の動輪、キャプの前面窓が「タレ目」でユーモラスな姿をしていました.同機は歴史的にも貴重な存在で、日本車輌で昭和31年に試作機として製造され、一時期国鉄にもDD421号として在籍していました.そんな同機はファンの間で「かばさん」と呼ばれ親しまれていたのですが、DD902が主力の座にある限り同機が客車を牽引することはなかろうと思っていたのでした。

長大中の長大編成
DD902+DD901+12系10連の長大編成

遠くから汽笛が聞こえ始めました。列車が重いためか遅れているようです。そして、いよいよパンダ号が姿を現します。日中は気動車が単行で走る当線では長大中の長大編成です。こんな列車が撮れた感激で次位のDD901の機関士さんに思わず会釈をしたら、同じように返して下さいました。

水田を背に
水が張られた田んぼを背に712+713の2連がゆく。

考えもしなかった重連が撮れて大満足。パンダ号に続くコマがこのようなアングルで撮られているのは無事目的を果たして心にゆとりができた証と言えましょう。
 しかし、パンダ号が帰って来るまでまだ8時間もあります。はっきりした計画もなく、ぶらぶらと石岡方向へ歩きました。

本業のジェット燃料輸送
DD902はヘッドマークを外して定期のジェット燃料輸送に従事した。

パンダ号が石岡に到着した後、DD902はヘッドマークを外していつもの貨物列車を牽いて榎本まで1往復しました。定期の貨物列車は2往復あり、通常は1往復目を902号が、2往復目を901号が牽くという使い分けになっていたようです。(この日は1往復のみ)この日DD902は客車の回送も入れれば3往復の運用があったことになります。

小窓がにぎやかな元夕張
ずらりと並ぶ小窓が特徴のキハ715は夕張鉄道の出身。

午後からは雨が降り出しました。朝、玉造町で下車してから一駅、もう一駅と、ついに石岡の手前まで約15kmを歩いてしまいました。
 一見したところ元三井芦別の712、713と似ていますが、こちらは元夕張鉄道キハ254のキハ715です。夕張鉄道には転換クロスシートの「高級車」がたくさんあり、当車も入線時には転換クロスだったようです。

爆音を轟かせて
雨の夕暮れ、2台のDLが長大編成を従え、爆音を轟かせる。

カメラを構えていると、向こうから歩いてきたのはSakamotoさん(相互リンク先「泡沫軌道部」)で、一緒に撮ることにしました。
 17:05頃、石岡発車の汽笛が鳴り、しばらくすると2両のDLがエンジン全開、爆音を轟かせて坂を登ってきました。遅いだろうと甘く考えていたら結構なスピードが出ており、その迫力は今も脳裏に焼き付いています。

ロッド式の901も大奮闘
後ろに続くDD901もロッドをめまぐるしく上下させて大奮闘

普段はこのようなアングルで撮ることはほとんどありませんが、爆音とロッドの回転に興奮したのか、思わずシャッターを切っていました。
 当初の計画では復路はDD901が先頭の予定だったそうですが、負荷が大きく、ロッドがぶれるおそれがあるとのことで次位に変更されたと聞きました。

当線へ国鉄の12系客車が入線する情報はそれまでにも何度か得ていましたが、貧乏学生にとって石岡は遠く、なかなか訪問できませんでした。しかし、学生生活が最後の1年に入り、平日限定の列車を就職してからでは撮りに行けないだろうと、忙しかったのを押しての訪問でした。まさか重連で牽くなどとは考えもしなかったことで、そう言う意味ではよい機会に訪問できたものです。
 思い起こせば、常陸小川付近まで歩いたところで腹痛に襲われ、駅までなんとか辛抱したこと、雨が降り出し、ロケハン中に足を滑らせて片足が泥だらけになったことなど、トラブルもありました。しかし、情報を下さった方や、泥だらけで困っていた私にティッシュを下さった地元のおばさんなど、ご厚意に支えられて貴重な記録を残すことができました。


イベント列車(1)
桃浦付近は霞ヶ浦と筑波山を背に走る名所。

「鉄道の日」前後を中心に、DLが気動車を牽引するイベント列車がしばしば運転されます。
 相互リンク先「汽車・電車1971〜」TADAさんからお送りいただいた写真を長らくお預かりしていましたが、この機会に公開させていただきます。 桃浦付近はバックに霞ヶ浦、晴れれば遠くに筑波山を望む名所です。

写真:「汽車・電車1971〜」TADA様

イベント列車(2)
まもなく鉾田に到着するイベント列車

イベント列車は重連牽引もありましたが、2003年に2両のDD13が中国の新私鉄に売却された後はDD902が保線用として残るのみです。DD13とそっくりのDD902は自社発注(関東鉄道時代)の生え抜きであり、今後とも大切に使用されることが期待されます。(→DD902は2007年の廃線前に売却)

写真:「汽車・電車1971〜」TADA様

常陸小川の主
常陸小川駅で保存されていた「かばさん」DD901。

1988年、2両目のDD13である367号機の導入後にDD901は廃車となりました。常陸小川駅で静態保存されていましたが、2007.2、廃線を前に解体処分されてしまいました。

●参考サイト

常陸野鉄道写真館
鹿島鉄道を中心に貴重な記録がたくさん掲載されています。私と同じ日に撮影された重連パンダ号の他、スロ81系(ミト座)やDD901を含む重連貨物列車も貴重です。

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