2004.10.23 UP、2020.5.25 古い記述を修正
2000年代に入ると少子化による通学生の減少などにより、利用者の減少は深刻な状態になっていました。また、自衛隊百里基地への航空燃料輸送の廃止も大きな減収要素となりました。廃止に危機に対して利用者である高校生たちが立ち上がり、存続運動を起こしたこと。再生請負人とも言われる岡山県の両備グループは沿線住民の存続に対する関心が低く、再生を引き受けないという決断を下したことが思い出されます。
以下は母校である芝浦工業大学鉄道研究会会誌「停車?」NO.7(1991年)に掲載の「国鉄(JR)の客車による他社線乗り入れ列車の記録」を2004年にリライトしたものです。その後、明らかに変わっている事項について修正を行いました。
関東鉄道から1979年に分離された鉄道です。私が学生だった1982年頃、当社には2両のディーゼル機関車が配置され、自衛隊百里基地向けのジェット燃料輸送のタンク車を牽いていました。
当駅のテーマである「名物客車列車」は沿線の幼稚園、保育所の集団遠足列車「パンダ号」です。上野までの日帰りの行程で年に数回運転されていました.
客車は通常12系6両編成でしたが、私が訪問した1984年5月16日は9両編成で計画されていました。当日朝石岡に降り立つと2両のディーゼル機関車が両方とも見あたらず、「おやっ?」と思いました。鹿島鉄道に乗り換えると各駅にわざわざ「パンダ号運転」の貼紙があり、その駅の通過予定時刻と共に「客車10両、一部区間機関車2両」とあって驚きました。
通常は2両のうち新しい方のDD902号が単機で牽引していましたが、10両もの長大編成となっては沿線に点在する勾配区間でどうしても遅れが出てしまうため、当時もう一両あったDD901号も駆り出されることになったのでした。
このDD901号、番号は1番違いながらスタイルは大きく異なり、SLのようなロッド式駆動の動輪、キャプの前面窓が「タレ目」でユーモラスな姿をしていました.同機は歴史的にも貴重な存在で、日本車輌で昭和31年に試作機として製造され、一時期国鉄にもDD421号として在籍していました.そんな同機はファンの間で「かばさん」と呼ばれ親しまれていたのですが、DD902が主力の座にある限り同機が客車を牽引することはなかろうと思っていたのでした。
カメラを構えていると、向こうから歩いてきたのはSakamotoさん(相互リンク先「泡沫軌道部」)で、一緒に撮ることにしました。
17:05頃、石岡発車の汽笛が鳴り、しばらくすると2両のDLがエンジン全開、爆音を轟かせて坂を登ってきました。遅いだろうと甘く考えていたら結構なスピードが出ており、その迫力は今も脳裏に焼き付いています。
当線へ国鉄の12系客車が入線する情報はそれまでにも何度か得ていましたが、貧乏学生にとって石岡は遠く、なかなか訪問できませんでした。しかし、学生生活が最後の1年に入り、平日限定の列車を就職してからでは撮りに行けないだろうと、忙しかったのを押しての訪問でした。まさか重連で牽くなどとは考えもしなかったことで、そう言う意味ではよい機会に訪問できたものです。
思い起こせば、常陸小川付近まで歩いたところで腹痛に襲われ、駅までなんとか辛抱したこと、雨が降り出し、ロケハン中に足を滑らせて片足が泥だらけになったことなど、トラブルもありました。しかし、情報を下さった方や、泥だらけで困っていた私にティッシュを下さった地元のおばさんなど、ご厚意に支えられて貴重な記録を残すことができました。
「鉄道の日」前後を中心に、DLが気動車を牽引するイベント列車がしばしば運転されます。
相互リンク先「汽車・電車1971〜」TADAさんからお送りいただいた写真を長らくお預かりしていましたが、この機会に公開させていただきます。 桃浦付近はバックに霞ヶ浦、晴れれば遠くに筑波山を望む名所です。
常陸野鉄道写真館
鹿島鉄道を中心に貴重な記録がたくさん掲載されています。私と同じ日に撮影された重連パンダ号の他、スロ81系(ミト座)やDD901を含む重連貨物列車も貴重です。