■茨城交通湊線

2001.9.1 UP

常磐線勝田から阿字ヶ浦に至る線区です。この鉄道にはケキ100形というDLが存在し、かつて国鉄からの乗り入れ客車を牽引していました.このケキ100形はストープ列車で有名な青森県の津軽鉄道のDD350型とほぼ同形です.私が訪問した1983年頃までは混合列車が存在し、機関車+貨車+気動車という編成が名物になっていました。この頃はすでに貨車が付かないことが多かったのですが、国鉄から勝田駅の貨車入換業務を委託されていたため、往復貨車がなくてもケキは気動車を従えて勝田へ向かいました。
 JRからの乗り入れ列車としては海水洛列車(気動車)「あじがうら」が残っていましたが、末期には上野から追い出されて我孫子始発となり、編成も短くなって、ついには廃止されてしまいました。ケキ100には出番が来そうになかったのですが、その後、キハ11型を国鉄塗装にしたイベントの好評に気をよくした茨城交通が気動車を牽引させる列車が時折走るようになりました。(1991.10記、一部追記)



●辛うじて残っていた旧塗装車(1983.9.9)

学生時代は慢性金欠病のために近場での撮影ばかりが優先され、地方の私鉄を訪れる機会は遅れに遅れていました。それほど遠くもなかったここ、茨城交通湊線もクリーム色に青帯の新塗装への塗り替えが進み、なんとか旧塗装をと思った1983年9月にやっと初訪問を果たしたのでした。

●寝坊がたたって

当日の朝、上野発5:07の常磐線初電に乗車するため4:00に目覚ましを掛けましたが、1時間も寝過ごしてしまいました。おまけに雨音が聞こえています。気力が失せてしまいましたが、行かないと青春18きっぷが1枚余ってしまうし、旧塗装を撮るには最後のチャンスになりそうだからと、眠い目をこすりながら下宿を出ました。
 赤羽駅へ急げば上野経由よりも水戸線経由の方が早く着けることがわかり、走って(まだ若かった・・・)5:20の日光行きに乗りました。寝坊がたたって朝の4連は撮れず、那珂湊では3両が切り離されて単行になってしまいました。

(注) 拡大画像はJava Script を使用しています。セキュリティーの設定次第では正常に動作しないことがあります。

名物ステンレスDC
那珂湊では名物ステンレスDC、ケハ601とキハ1002が連結して留置されていた。

自社発注の気動車には珍しい形式名「ケハ」が付けられていました。「ケ」は燃料である軽油の「ケ」であることは有名な話です。1960年新潟鉄工製のステンレス気動車ケハ601はぜひ見たかったのですが、撮影可能な場所に停まっており、とりあえずカメラに収めることができました。

気動車と連結して勝田へ
那珂湊駅の近くでお茶与濁した混合114列車。

混合114列車は駅からの移動時間があまり取れず、背景が今ひとつのポイントでお茶を濁しました。
 既に貨車が付くことは少ないと聞いていましたので、覚悟はしていましたが、やはり残念でした。
 未舗装の道路には水たまりができていますが、雨も上がってしだいに陽が差してきました。

もうこの時期に貨車はなし?
帰りの混合列車もやはり貨車が付かなかった。

帰りの混合列車もやはり貨車は付きませんでした。参考文献には1983年の貨物収入がゼロと記されており、ケキは専ら国鉄から委託されていた勝田駅の入換を行うために運用されていたようです。
 後ろの気動車キハ223(元羽幌炭礦鉄道)はその名が示すとおり国鉄キハ22のコピーです。

中根付近のカーブにて
中根付近のカーブを行くキハ1002

那珂湊駅に着いた時点で4連の運用が終わってしまい、日中は那珂湊交換の2運用だけになる覚悟をしました。それでも中央の1灯式ライトから「ヘソディーゼルカー」と呼ばれた元留萌鉄道のキハ1002が動いたのは幸運でした。
 この区間は平坦で単調な風景が続きますが、中根駅近くのカーブは恰好の撮影ポイントでした。

期待の「湯たんぽ」が来た
動くことが期待されたケハ601がやってきた。

記憶が定かではありませんが、那珂湊駅に着いたとき、ケハ601はアイドリングをしていたような気がします。動くかも知れないとひそかに期待していたそのケハ601がやってきました。
 左側には信号機の支柱だけが残っていますが、かつては中根駅が交換可能であったことを物語っているようです。

下校時の2両編成
下校する大勢の高校生たちを乗せたキハ1002。

下校時には2両でも満員になりました。窓ガラスのすぐ後ろに高校生が大勢乗っているのがわかります。こんな「特等席」で通学できただなんて羨ましいですね。友達同士でどんな話をしているのでしょう。女子高生たちの笑い声が聞こえてくるようです。

生まれも育ちも違う2両編成
キハ1002+キハ111の2両編成が帰ってきた。

キハ1002+キハ111の2両編成が帰ってきました。両者は生まれも育ちも違いますが、連結して走っても全く違和感がありません。

ぎらり光るステンレス車体
ぎらり光るステンレス車体のケハ601。

ケハ601のサイドビューをねらったらぎらりと光りました。最近のステンレス車では味わえない美しさです。ちょっとわかりにくいのですが、車内の高校生は背中ばかりが写っています。そういえば同車はロングシートでした。

キハ11形の2連
那珂湊駅への帰り道、キハ111+113がやってきた。

那珂湊駅へ帰る途中でキハ11の2連がやってきました。日中は単行が那珂湊で交換しながら行ったり来たりするだけかと思えば結構色々な車輌の走行を撮影することができて満足でした。もしこの朝、寝坊と雨にめげてふとんをかぶってしまっていたら・・・。
 所属していた同形3両のうち2両がJR東日本と東海の博物館に収蔵されました。

元留萌鉄道のキハ1103
羽幌色のまま残っていた元留萌鉄道のキハ1103。

この日は動く姿を捕らえることはできませんでしたが、元留萌鉄道のキハ1103は旧塗装のまま残っていました。正面窓の間隔が広く、少々間の抜けた顔つきです。

元留萌鉄道のキハ2005
ヘッドライトの両脇にあるタイフォンが特徴の旧留萌車。キハ2005

国鉄キハ22タイプですが、これは元留萌鉄道のキハ2005。ヘッドライトの両側にあるタイフォンが特徴です。北海道の炭鉱鉄道で使われていた気動車は本州各地のローカル私鉄に引き取られましたが、当社へやってきたキハ22タイプは本家旧国鉄のキハ22が全廃となった後も活躍を続けました。
 晩年は国鉄急行色にひげ入りという島原鉄道風の塗装をまとっていました。

帰りは旧塗装のキハ223で
こちらも残り少ない旧塗装車、キハ22

勝田までの帰路は再び運用に入った旧塗装のキハ223(元羽幌炭礦鉄道)に乗車しました。羽幌からお輿入れした気動車の塗色が好評でそのまま採用されたようですが、新塗装への塗り替えが進んで残りわずかになっていました。
 後年、リバイバル塗装としてこの色が再現されたものが出ました。当ページで紹介しているものは国鉄特急色の「赤2号」をもう少し濃くしたような色ですが、さらに茶色がかった色でした。

●茨交車を併結した海水浴急行「あじがうら」(1984.8.3)

翌1984年の夏は卒業研究が多忙で夏休みも取りづらい状況でした。しかし、実験のスケジュールの関係で急遽平日に休みが取れることになり、この機会にと日立電鉄の通勤電車を撮影しに出掛けました。しかし、現地に着いてみると日立グループの夏休みのため全て単行で運転されていてがっかりしました。そこで、早々に引き上げて予定を変更。ちょうど運転日であった海水浴急行「あじがうら」を撮影するため茨城交通に立ち寄りました。

帰りは旧塗装のキハ223で
海水浴客輸送のため3両編成となったキハ222ほか

減少傾向にあったとはいえ、この当時のシーズン中ははまだまだ海水浴客の利用があり、日中の列車も増結されていました。ヨットのヘッドマークが海水浴列車らしくていいですね。

国鉄、社線型併結の「あじがうら」
最後尾にキハ1103を連結した「あじがうら」。

キハ22×3の頃は快晴でしたが、国鉄からの直通列車「あじがうら」の時間が近づくとしだいに雲行きが怪しくなって遠雷が聞こえてきました。どうなることかと心配で、「早く来い!早く来い!」と祈るような気持ちでした。

キハ1103にもヘッドマーク
最後尾のキハ1103にもヘッドマークが取りつけられた。

上野行き「あじがうら」の最後部には社線内でキハ1103が併結されました。これは折り返し127列車用の車輌を送り込む必要があったためですが、この年はキハ1103にも鉄道趣味団体作成のヘッドマークが取りつけられました。



1993年に大阪へ転勤となり、気軽に訪れることができなくなってしまいました。それでも、キハ11形の国鉄塗装を再現した1996年のイベントには夜行列車で駆けつけ、交互にやって来る青と朱色、2両のキハ11の撮影を存分に楽しませていただきました。その時の作品はまたの機会にと思います。

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