1982年4月、別府鉄道を訪ねて

2014.5.11UP

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■キハ2号修復資金のクラウドファウンディング達成

 「キハ2号を守る会」さんのクラウドファウンディングのプロジェクトは無事成立しました。おめでとうございます。これまで劣化を食い止めるのが精一杯だったとのことですが、専門業者さんの手を借りることで修復の円滑な進行が期待されます。
 日本最古級の機械式気動車 旧別府鉄道車両キハ2号を永久保存へ!!

説明は写真をクリック 2013.12のある日。山陽本線土山駅へ降り立ちました。この駅を使うのはもう31年ぶりということになります。たまたまですが、出張で工場立会い検査の仕事があり、最寄駅が土山だったのです。
 橋上駅の階段を降りると、工場の担当者が迎えに来てくれていました。
 昼食のとき、別府鉄道に乗るために土山駅へ来たことがあると話しました。しかし、若い担当者は首をかしげ、別府鉄道の名すら聞いたことがないという様子でした。なにせ、運行当時も駅の裏側からひっそりと発車し、地元住民でも知らない人がいても不思議ではないほど目立たぬ存在でした。若い人が全く知らないのは無理からぬ反応だったかもしれません。
 各地の非電化私鉄訪問は学生時代から続けていましたが、当時でもとっくになくなっていて当然の車両が使われ続けていた点で、別府鉄道のタイムスリップぶりは群を抜いていました。
 現地を訪れたのは1日限りです。今回は岩手開発鉄道同様、日記形式で進めます。

●4泊5日の多目的旅行

 長期休暇で愛知に帰省したときには、近所の幼なじみのK君がしばしば遊びに来ていた。1982年の春休み、歴史が好きなK君は京都と姫路へ行きたいが、交通機関には自信がないので、一緒に行ってくれないかという。私はこの休み中に別府鉄道と広島(瀬野八と可部線)を訪れたいと思っていたが、出直すとお金が余分にかかるため、思い切って連続工程にした。
 K君兄弟とK君の友人2人も参加して3月30日に出発。31日は京都観光で完全非鉄。117系の新快速に初めて乗って姫路へ行って宿泊。翌4月1日の朝食後、K君たちと別れ、姫路駅へと急いだ。加古川9:44発の高砂線429Dに乗らないとその後の効率が大幅に落ちてしまうのだ。

●野口線はキハ2が担当!

 加古川からわずか1駅の野口から別府鉄道野口線が出ている。トルコン付のキハ101(旧国鉄キハ41000形)が片上鉄道から転入したあとは、バケット付のキハ2などは動いていないと思っていたが、事前情報によれば、ここ最近は結構動いているようだ。どちらが待っているか、ドキドキしたが、429Dのキハ30系からキハ2が見えた時にはやったと思った。
説明は写真をクリック 岡山臨港鉄道では、水島臨海鉄道から旧夕張鉄道の気動車を購入したが、大きすぎて燃料を喰うため、日中は小型の旧型車を使っているという話であった。当社も同様の事情なのかも知れない。
 429Dの野口発が9:48。別府鉄道は9:49で、1分後の発車のように思えるが、雑誌で両者が併走している写真を見たことがある。乗り換えが終わると野口線が速やかに発車し、結果的には同時発車となるようだ。それを撮りたくて、429Dから降りた後、キハ2には乗らず、ホームの端へ急いだ。そして、期待どおりほぼ同時に発車した。実際に見るまでは心配であったが、まずはやれやれといったところか。足回りが煙っているが、これは、キハ2の排気管が床下で終わっているためだ。

説明は写真をクリック キハ2は10:30頃に戻ってきて、11:22の発車まで1時間近く野口で待つことになる。走行シーンを撮るため、隣の藤原製作所前方面へ向かった。線路を見ると30kgレールの他、踏切周辺を中心に50kgレールも使われている。小さな気動車が終日単行で走るだけの路線に50kgレールが使われてるのは意外であった。太いレールが踏切周辺に使われているのは、大型トラックなどが横断すると細いレールでは傷んでしまうからであろうか。
 待つことしばし、キハ2が戻ってきた。車内は閑散というほどではなく、そこそこ乗っているようだ。車両は昭和30年代の雰囲気だが、沿線のロケーションは住宅や工場など、中途半端に近代化されたものが混じっている。キハ2にぴったりとまではいかないが、それが別府鉄道の沿線風景の特徴でもある。
 撮影後、野口駅へ戻る。野口線はワンマンではないため、運転士さんのほか、車掌さんも乗っているが、私が駅へ戻ったときにはどこへ行ったのか、見当たらなかった。

●マニュアルシフトで加速

説明は写真をクリック 高砂線の気動車431Dが山陽本線と国道を跨ぐ築堤を下りてくる。それとキハ2を一緒に撮った。このアングルは鉄道ファン誌1976年8月号、非電化私鉄ガイドのフォトサロンのコーナーに載っていた写真を真似たものだ。同誌で非電化私鉄の魅力を知り、各社訪問へと引き込んだバイブル的な存在の一冊と言っても過言ではない。
 431Dからの乗換客を待って発車する。地元の人のほか、明らかに鉄道ファンと思われる人も数名乗っている。
 ローギアかセカンドギアかは忘れたが、発車すると運転士さんはすぐにクラッチペダルを踏み、シフトアップする。鉄の車輪は摩擦抵抗が小さいため、動き始めてしまえば低いギアをあまり使う必要がないのだろうか。沿線はこれといって開けたポイントがない。そこそこ建物が多い間をくぐり抜けるように走っている。先ほど野口駅付近で簡単に撮ってしまったのは正解だったようだ。
 途中駅から地元の女の子らしい2人連れが乗って来た。お姉さんは高校生くらいだろうか。普段から野口線に乗り慣れているという雰囲気ではなかった。
 終点別府港に着く前に、車庫が見えた。運用がないキハ3と2軸客車ハフ5が連結されて留置されている。駅のホームからではかなり遠いが、ズームレンズを目一杯テレ側にして1枚撮った。もし車庫へ行くことができなければキハ3やハフ5が撮れずに終わってしまう。

 窓口で土山までの切符を買う。小さな鉄道の小さな車両に乗るのに、切符は立派なD型硬券だ。車庫を見学できるか尋ねたところ、快く許可が出た。野口線の別府港着が11:33。土山線の混合列車の発車は12:16だが、小さな車庫なので、10分もあれば十分だ。他のファンと一緒に車庫へ向かった。
 まずは屋外留置のキハ3を撮る。光線状態は良好だ。よく見ると、ピンクの塗料がはがれて下にハフ5と同様の緑色が見えている。どうやらキハ3も客車と同じ塗装だったようだ。(ネット上の古い写真でその事実が確認できます。)野口線の主力と思われた元片上のキハ101は車庫の奥の方へ押し込まれていた。キハ101はキハ2、3と製造年代が近く、決して新しいものではないのであるが、もしこちらが動いていれば「ハズレ」だったのだ。キハ2、キハ3の塗装は片上色に合わせたものと感じられた。他社からの譲渡車の塗色の評判がよく、在来車もその色に塗り替えられた事例は茨城交通(現ひたちなか海浜鉄道)の旧羽幌色に見られる。

 土山線のディーゼル機関車は4台あり、DB、DC、DDと大きさが異なる。貨車がないときはDBが客車1両を牽くというときもあるようだが、今日は貨車が長く、最も大きいDD1351のエンジンがかかった。同機は型式番号が示すように、国鉄のDD13に近い設計で、DD13の1号機より早い1957年に登場している。国鉄に在籍したことはなく、湖西線ができる前に走っていた江若(こうじゃく)鉄道に納入されたものだが、同線の廃止に伴い転入したものだ。江若鉄道でも夏季には海水浴ならぬ「湖水浴」の乗客で満員の客車列車を牽いていたが、当社でも辛うじてお客を乗せる列車を牽いているのは何かの縁だろうか。

 

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土山線の混合列車に乗る

 12:16発土山線の混合列車は車庫でアイドリングしていたDD1351の牽引。客車はハフ7だ。貨車が長いせいか、先頭の機関車は見えない。ハフ7に乗り込んだ乗客の半数以上は同業者。親子連れのお父さんに話しかけられた。
 「うちの息子が鉄道好きでしてね。どちらからですか。愛知県?それは遠くから・・・。」
 車内は和やかな雰囲気である。
 地元の女の子も野口線から乗り換えた。初めてのようだが、わざわざ乗りに来たファンとは違い、本来のお客さんには違いない。
 1両だがワンマンではなく、車掌さんが乗務している。ワンマンとなると貨車の最後に付いた客車は乗客だけになってしまうわけで、手動扉なので、安全上も問題があるだろう。
 発車するときは連結器の遊間による衝撃がまとも伝わってきた。乗り慣れているとみられる乗客はいないため、皆「おおっ。」という反応である。
 ハフ7は2軸車のため、レールのジョイントを刻む音は2拍子だ。「トントン」というよりは、もう少し合間があって、「トン_____トン」という感じだろうか。線路状態がよくないのか、よく揺れる。時々先頭のDLから汽笛が聞こえる。土山線も沿線風景は決してよくはないが、至ってのどかである。
 中間停留所の中野を出てしばらく行くと、土山線名物の鳥居が見えた。ここは撮影地候補に入れておこう。やがて、高層の共同住宅が見えてくると、まもなく終点土山である。
 女の子たちはその遅さに閉口したのか、「こんなに時間がかかるんだったら、自転車の方が速かったね。」などと言っていた。たまたま土山へ行く用事があって乗ってはみたが、もうこりごりというところだろうか。

●土山線沿線で混合列車を撮る

説明は写真をクリック  土山駅では跨線橋を渡って国鉄の改札口から出ることになる。D型硬券は無事手元に残すことができた。
次の別府港行は13:40発である。撮影地まで距離があるが、バスなどはなく、線路沿いに歩いていくしかない。学生の身分でタクシーを使うことは発想自体がなかった。
 高層住宅を横目に線路に沿った道を進むが、線路から次第に離れてしまう。最初の撮影地は迷わず鉄橋にした。カメラを構えていると、地元の方から声をかけられた。話をしていると、鉄道ファンとまではいかないが、そこそこの知識は持っておられるようだ。地元の方ならではの話を聞かせていただいたが、印象深かったのは、貨車が長いときは後部はブレーキ管が切ってあるということだった。後部の何両かはブレーキが効かないことになるが、機関車の空気溜めの容量の関係か、全車に引き通すとかえってブレーキ力が弱まってしまうのだろうか。
 順光側は通信ケーブルのほか、後部は草が目立つため、逆光側にした。(これは後々後悔することになるが。)
 時間になり、列車が見えてきた。今度も貨車がそこそこ長いようだ。別府港行は機関車の次位に客車が連結される。エンジンの音が聞こえて、乗る分にはこちらのほうが楽しいだろう。
 撮影が終わるまで地元の方もその場におられた。
「どうです。ブレーキ管、切ってありましたやろ。」
シャッターを押したあと、連結部を注意深く見ていたが、確かにおっしゃるとおりであった。
説明は写真をクリック 地元の方と別れて先へと進む。鳥居のあるカーブまではそれほどの距離はない。
 次の別府港発土山行は14:46発なので、待ち時間は一時間とない。1日4往復の路線では効率がよいほうだろう。春爛漫の一日で、沿線にはツクシ取りの人たちがたくさん来ていた。
 列車の時間が近づいてきた。線路沿いで小学生の女の子4人が遊んでいる。列車に気付かずに線路を渡ったりしないだろうかと少しハラハラさせられるが、地元の方の線路横断はきっと運転士さんも慣れっこなのだろう。汽笛による注意喚起も不自然さや緊迫感がまるでない。
 彼女たちは鳥居の横で特別に列車を意識することもなく、よい感じで画面に納まってくれたようだ。

 今日は広島まで移動しなくてはならない。次の土山発は15:40発であるが、予約した広島坂町ユース到着があまり遅くなるわけにはいかないため、撮影終了である。京都駅で広島・宮島ミニ周遊券を買ってあったが、姫路で途中下車しているので、改めて切符を買わなくてはならない。土山駅へ同じ道を引き返すよりも、別府港方面へ歩き、電鉄別府から山陽電鉄に乗ることにした。山陽電鉄はなかなか乗る機会がなく、もちろん初めての乗車となる。土山線は列車が全く来ないため、ただひたすら歩くのみである。無人の中野駅を眺めたくらいで、沿線にこれといって興味を惹かれるものはない。電鉄別府に着く頃、野口へ行っているキハ2が1往復撮れそうだ。光線はよくないが、腕木式信号機と絡めて撮っておいた。

●あとがき

説明は写真をクリック説明は写真をクリック
 まずはあとがきに入る前に補足です。
 当コーナーのテーマは私鉄の機関車が牽く旅客列車です。しかし、私が訪問した日は貨車が長く、ハフ7号客車が付いているのが辛うじてわかるだけの写真です。物足りないものと言わざるを得ません。
 当時、友人の山崎俊さんもローカル私鉄に興味があり、別府鉄道も訪れていました。その際にDD502+ハフ7+ワム1という、私も撮りたかったような編成が記録できています。
 また、キハ2が別府港を出たところで撮った1コマはネガの状態が劣悪で、鑑賞に堪えません。近いポジションで撮った山崎さんの作品は別府港駅の全景がわかるものです。それらを掲載することによって補足とします。


 バスケット付きの気動車が走っていたのは、当時ここと筑波鉄道くらいであったと思います。筑波のものは比較的新しいのですが、キハ2は荷物室付で、輸送単位の小さい非電化ローカル私鉄ではよく見られたスタイルです。何でも車で運ぶ現代とは違い、ちょっとした生活物資なども荷台や荷物室に載せられたと思われます。当時の住民の生活が現れたスタイルとも言えましょう。昭和40年代にはモータリゼーションによって中小私鉄が続々廃止となったため、別府鉄道はさらに前、昭和30年代のローカル私鉄の姿を残していたとも言えるのではないでしょうか。
 親会社、多木化学からの貨物の発着はそこそこあるものの、旅客輸送ではとても経営を維持できなかったことは明らかです。例えば、別府港−土山間で130円と運賃も安く、旅客輸送で稼ごうという意志はさらさらなかったのでしょう。僅かな乗客を運ぶのに適当な中古車はなく、投資する余裕もなかったはずです。経営者の地域に対する奉仕心だけが旅客輸送を支え、代わりがない古い車両たちが生き残ってきたものと思われます。

 別府鉄道は1984.2.1ダイヤ改正で土山駅の貨物取り扱いがなくなったため、その影響をもろに受けて改正前日の1.31で全線廃止になってしまいました。実家に帰省中ならば青春18きっぷでも十分日帰りで行ける距離だったのに、訪問はこの時限りになってしまったのは残念です。
 昭和40年代に姿を消していても不思議ではない車両が別府鉄道に引き取られたことによって奇跡的に生き延びてきた貴重なものです。廃止後、当社で使われていた車両の半数以上が保存されました。しかし、一部の車両は手入れが行き届かず、旧円長寺駅に保存されたキハ2は窓ガラスがほとんど割られるなど、荒廃が進んでいました。しかし、近年になって「守る会」が発足し、修復作業が始まっています。

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