■東武鉄道熊谷線
2018.4.8 UP
1981年4月、大学進学のために郷里、愛知県を離れ、埼玉県在住となりました。このときから各地の非電化ローカル私鉄線訪問が始まりました。最初に訪れたのは県内の路線です。大手私鉄ながらもローカル線の風情満点であった東武鉄道熊谷線でした。
●他の大手私鉄の気動車とも異質な存在
熊谷線を初訪問した1980年代前半、基本的には電気運転の大手私鉄で気動車を保有しているのは名鉄と南海でした。2社では寂しいのでもう少し時代を遡ると、1955年〜1968年の間、小田急も気動車を保有し、新宿−御殿場を直通運転していました。(同区間の直通列車は今も運行継続中ですね。)
3社に共通するのは、いずれも国鉄線の目的地へ直通する列車を設定するにあたり、非電化区間があるために気動車を準備したという点です。それに対して東武熊谷線は他社へ直通するどころか自社の他の路線ともつながっておらず、東武線としては孤立した存在でした。車両も線内のみで使用される純然たるローカル仕様で、優等列車としての乗り入れる設備を備えていた他の3社のものとは性格が異なるものでした。
なお、名鉄では後年、閑散線区の末端区間などで電化設備を撤去し、レールバスや軽快気動車と呼ばれる気動車を運行しました。しかし、いずれも長くは続くことなく廃線に至り、気動車はミャンマー国鉄に譲渡されています。
(注) 拡大画像はJava Script を使用しています。セキュリティーの設定次第では正常に動作しないことがあります。
初訪問時の終点妻沼本格的な講義が始まったばかりの頃、熊谷線に初めて乗車しました。この日は高崎線でEF15や東北線では見られない特急列車を撮影し、その後、上熊谷から妻沼を目指しました。
妻沼ではスナップ写真を撮影後、すぐに折り返し列車に乗車しました。
近年は桜が3月中に開花し、4月上旬には散ってしまう印象があり、4/12に桜が咲いているのは意外な気がしてしまいます。
運転席の横は展望席運転席の横にも席があり、展望は絶好でした。奥のほうに腕木式信号機が見えていますが、熊谷線は全線1閉塞のため信号機は必要がなく、使われていないものと勝手に思っていました。実際は妻沼駅の場内信号機として動作していて、妻沼行に対して腕木が水平=停止を示しています。
この日のメモには妻沼のキロポストは7・1/2(7.5km)で、熊谷に向かって数字が増えて行くことに気付いたと書かれています。
2両編成の列車1983年5月限りでの廃線が発表され、撮影者が増える前にと2.19に再訪しました。この日は単行になってしまわないうちにと、7時前の妻沼行に乗車したようです。しかし、思ったより2連で運行される時間帯は長かったと記録ノートに記されています。
掲載写真のスキャンを始めたとき、思ったのがどのコマもトリミングをしたくないということでした。画面に写っているもの全てが熊谷線の空気感を醸し出しています。
2両編成を長いレンズで熊谷から戻ってくる840レは正面がちにズームアップして撮ってみました。
レールをよく見ると、継ぎ目が多い短レールであることがわかります。関東の非電化ローカル線ではしばしば聞かれた「トトン、トトン、トトン、トトン」というせわしいジョイント音が聞こえて来るようです。
日中の単行運転はキハ2002沿線は田んぼよりも畑がたくさんありました。この写真を見ると野良犬を思い出します。人なつっこく、しっぽを振って私に近づいて来ると、しばらくの間ついてきました。この犬、どこまでついて来るんだろう。「都内のアパート暮らしだからお前をどうにもしてやれないよ・・・。」けがをしていて、消息が気になりましたが、確かめる手段はもちろんありませんでした。
妻沼駅手前の腕木式信号機信号機が生きているのを知ったのはいつのことかはわかりません。埼玉県では国鉄でも川越線、八高線など首都圏周辺にもかかわらず意外なほど腕木式信号機が残っていました。しかし、列車と絡めて撮ったものはほとんど残っておらず、意識的に撮ったこの1コマは私にとって貴重なものとなりました。なぜ意識をしたのか。それは他に何もなかったからでしょう。
高崎線を超える築堤終点妻沼まで行って歩いて戻りながら撮影をしていました。途中でお会いした同好の方が車に乗って行きますかと誘って下さり、ご一緒させていただきました。そうでなければ上熊谷に近いここまで簡単には歩いて来られません。単調な風景が続いていた熊谷線ですが、変化のあるアングルで撮れました。
高架の右端に上越新幹線200系がちらっと写っています。
記録帳によれば伊勢崎からお見えの方だったようです。
独立樹妻沼−大幡間に大きな独立樹がありました。それと絡めて撮ることを最初から意図していたのか、伊勢崎の方の提案によるものなのかは記憶がありません。この日はこの1コマが最後の撮影で、大幡駅で降ろしていただいてお別れしたようです。ご厚意に改めて感謝したいと思います。
最終日はお手軽撮影で運行最終日の1983.5.31も熊谷へは行きました。しかし、熊谷線の切符売り場は長蛇の列。ダイヤは乱れ、次の列車に乗れるという甘い状態ではありません。最低でも列車が妻沼まで行って帰って来るまで待たねばならない状態でした。そこまでしてぎゅうぎゅうの列車に乗る意思はなく、上熊谷を出たところの秩父鉄道並走区間でお手軽に撮ってお別れとしました。
末期は2001号が検査切れで杉戸工場へ送られてしまい、予備車もない状態でした。
●廃止やむなしの路線だったのか?
熊谷線の廃止が決まったと報じられたとき、比較的大都市の近くを走っているのになぜだろうと思いました。もっと人口密度が低いところで維持されている鉄道が多数あるというのに・・・。
西小泉への延伸工事が中断され、離れ小島のままになったことで群馬と埼玉を結ぶ通過交通が増えなかったことは影響が大きいことでしょう。東武鉄道の路線であるため、運賃は安く(廃止前で熊谷−妻沼は130円)、席が全て埋まったとしても1〜2両では採算に乗りそうにありません。また、少ない収入の中から熊谷駅のホームを借りていた秩父鉄道へ間借り料を支払わなくてはなりません。妻沼に車庫はありましたが、大きな検査はできないため、秩父鉄道を経由して杉戸工場(現東武動物公園)まで甲種で送らなくてはならないなど、維持に意外と経費がかかる路線でした。東武鉄道がこれ以上の経費を負担できないと判断すれば、廃止されるのは必然であったのではないかと思われます。
運行最終日、帰宅後にテレビ各局のニュースをはしごしながら見ましたが、熊谷線廃止のニュースは私が見た限り扱われませんでした。現地では押すな押すなの大盛況だったものの、広い視野でみれば、その存在は小さく、ひっそりと消えていったと言わざるを得ないかも知れません。
●廃線跡は
googleマップの航空写真を見ると、ここが線路の跡だったのだと追い掛けることができます。多くの区間が遊歩道や公園、道路になっています。区画が変わって建物がたくさん建ってしまい、面影すらないということはなさそうです。高崎線を越えるオーバークロスも撤去されていますが、付近の状況からカーブの線路跡の様子が読み取れます。
2コマ目の車内からの写真の左側に校舎が写っていますが、これは妻沼高校です。googleストリートビューで確認しましたが、校舎の形状の特徴からアップロードの時点では同じ建物であることがわかりました。
ネット上では鉄道としての復活の可能性について触れたページが散見されます。前記のように、廃線にしなくてはならないような路線であったのかがいまだに消えてはいないことの表れではないかと思います。しかし、沿線に大規模な集客施設ができたり、道路の渋滞がひどくてバスの定時運行ができないなどの鉄道の優位性が発揮できる要素は今のところなさそうです。また、国によってはLRTが整備され、ほんとうに靴代わりに利用されているところがあるのに対して、日本の郊外都市では自動車に頼るのが当たり前という国民性があります。復活構想を一部の方々が温め続けているとしても、それが大きな力となって動き出すことは、残念ながら期待できないのが現状ではないでしょうか。
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