■岡山臨港鉄道
2003.6.17 UP
岡山県の宇野線大元駅から分岐していた私鉄線です。元々貨物輸送が主体で、どちらかというと旅客輸送は付け足し的な鉄道でした。1984年2月のダイヤ改正では全国で貨物扱いを行う駅が激減しましたが、当線ではそれ以降もなんとか貨物輸送が持ちこたえていました。
●元江若鉄道や夕張鉄道の気動車が活躍
大学生活も3年が経過し、卒業研究や就職活動を考えれば遠方の非電化私鉄ローカル線巡りはこの春休みが最後のチャンスでした。アルバイト収入で懐具合はまずまず。しかし、当時数千円もの資金を特急料金だけに費やす価値観はなく、在来線を乗り継いで大元を目指しました。刈谷を6:50に発ち、14:00頃やっと岡山に着きました。
(注) 拡大画像はJava Script を使用しています。セキュリティーの設定次第では正常に動作しないことがあります。
南岡山の車庫にてまずは終点岡南元町まで乗車し、徒歩で南岡山にあった車庫へ向かいました。機械式気動車であるキハ1003は水島から元夕張の車両が転入するときに廃車予定でしたが、新塗装に塗り替えられてきれいになっていました。
岡臨の廃止後は紀州鉄道に引き取られ、廃車後ははふるさと鉄道保存協会さん、さらにジェイアール貨物北陸ロジスティクスさんに移り、能登地方で開催の美術祭にレンタルされたのは記憶に新しいところです。このように、同車は度重なるピンチをすり抜けて生き残ってきた強運の持ち主です。
元江若鉄道のキハ5001元江若のキハ5001は最も会いたい車両でした。大元に到着する115系から同車が見えたときにはやったと思ったものです。因みに同車は1937年日本車輌製の機械式気動車で、名鉄の「なまず」や「いもむし」と同世代であることはそのスタイルから想像できます。
運転士さんに尋ねると、キハ7000形(夕張→水島)は大型すぎるため、日中の閑散時は予備車だと思っていたキハ5001が常用されているとのことでした。車庫から戻って再び5001に乗車、岡南福田で今日の5001最後の1本を撮影しました。
元夕張のキハ7000形22列車からキハ7002号が運用に入りました。3灯式のヘッドライト、ラッパ形のタイフォンは夕張時代から変化がないようです。
水島時代はラッシュ時限定で元夕張の客車、ナハニフ153を夾んだ3両編成で活躍していましたが、そのナハニフ153も一緒に引き取られて南岡山に留置されていました。おそらく使う当てはなかったでしょうに、水島からの譲渡条件が「廃車予定車の一括引き取り」だったのでしょうか。転換クロスシートのユニークな客車だっただけに、大井川鉄道あたりに引き取られていればと残念に思ったものです。
当線を支えてきた貨物列車DD1352が大元方面へ単機で向かって行ったため、その帰りが期待されました。通りかかった小学生にたちに何をしてるの?と聞かれましたが、この付近で岡臨の写真を撮る人はまだ珍しかったのでしょう。貨物列車はいつ頃来るかわかる?と聞き返しても答えは「知ら〜ん」でした。そして待つことしばし、期待の貨物列車がやってきました。
DD1352は国鉄DD13の後期形に準じていますが、国鉄に籍を置いたことはなく、江若鉄道が自社発注したものを譲り受けたものです。
バック運転?キハ7000形は水島キハ300形時代に3連固定編成として使用されていましたが、岡臨では夕張時代に整備された切妻側の運転台が再び活用されることになりました。間に合わせの運転台の印象は否めず、一見したところまるでバック運転のようです。
キハ7000形は水島に元国鉄キハ10系の導入が進み、玉突きのように岡臨に入線しましたが、在来の機械式、キハ5001、1003の2両が残されていた様子から考えると当線には大きすぎで、3両もの購入は過剰だったのではないでしょうか。
撮影を終えて24列車で引き揚げ暗くなってきたので24列車で引き揚げました。ネガを引っ張り出すまで撮影したことを忘れていた1コマです。
この日の行動をなぜかあまり思い出すことができません。お世辞にも風光明媚とは言えない沿線風景、岡南元町駅から車庫までの距離や岡南福田駅から撮影ポイントまでどんな道を歩いたかなど、記憶がないのです。ポジはカメラアングルのミスが目立ち、おまけにモノクロネガの現像を失敗してしまい、岡臨訪問は全般的な不調に終わりました。
●岡山臨港鉄道のその後
この時はまだ具体的な廃止計画は聞いていませんでしたが、時間の問題であろうと思われました。細々と続けられていた貨物輸送はやはり長くは続かず、1984.12.29限りで廃線となりました。あまり話題に上ることもなく、ひっそりと消えていった印象がありますが、現在では沿線人口は決して少なくないだけに廃線が惜しまれます。岡山市内南部は日中でも道路の交通量が多く、朝夕はかなりの混雑となるようです。当時は廃止しか選択肢がなかったのかも知れませんが、軽快気動車または電化によって岡山駅までの直通運転、スピードアップが実現していたならば、鉄道として存続することもできたのではないでしょうか。
1984年の訪問は前述のように不調気味でしたが、天気がどうの、写りがどうのと言う前に、線路自体がなくなってしまったことを考えれば、やはり貴重な成果を残すことができたと満足しています。
●参考サイト
キハ7000形の切妻運転台は今まで岡臨で取り付けられたとばかり思っていましたが、参考サイトを探すうちにそれが夕張時代から既に付いていたものであったことがわかりました。当ページの制作に当たっては横山さんの「GO!! GO!! HERAYAGARA!!!!」の「乗りもの噺」のコーナーにある「岡山臨港鉄道・キハ7000形の『謎』について 」を参考にさせていただきました。(リンク切れ)
また、RREさんのMy Railway 〜懐かしの鉄道写真アルバム〜でも当社を扱われていますが、私が訪問する5年前に撮影されたナハニフ153号の写真や、原形に近いスタイルだったキハ5002号などが掲載されています。岡臨のページはこちらです。
参考文献:私鉄紀行「瀬戸の駅から(上)」(湯口徹氏)
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