■有田鉄道

2005.10.09 UP(2022.8.13 タイトル画像追加)

●極端な減便で本業を維持

1976まで活躍したキハ07形
車体の裾部や縦樋が腐食して穴があく厳しい状態

この車が見たくて合宿先から片道3時間のここを訪れました。

和歌山県のみかん産地、有田川添いを走っていた有田鉄道。初訪問は1982.7、大学のサークルの夏合宿でした。新宮を拠点に、メンバーたちはEF58やDD51、キハ82系などをターゲットに散っていきましたが、私は特急を使っても往復6時間かかる有田鉄道を訪ねたのでした。既にキハ07形は引退し、富士急行から来たキハ58に置き換えられていましたが、現車は終点金屋口に残されていました。
 同社の輸送量は年を追う毎に減少し、1994年には樽見鉄道からレールバスが導入されました。それでも需要減には歯止めがかかることはなく、末期の頃は1日2往復、第2第4土曜、休日運休という極端な減便によって鉄路が維持されてきました。とっくに鉄道としての使命を終えていたことになりますが、鉄道を名乗る限りは列車を走らせ続けようとする同社の姿勢には頭が下がるものがありました。


(注) 拡大画像はJava Scriptを使用しています。セキュリティーの設定次第では正常に動作しないことがあります。

湯浅まで直通運転
湯浅まで直通運転を行うキハ58003

藤並は急行が停まらない小さな駅ですが、一部の列車が隣の急行停車駅、湯浅まで直通運転を行っていました。社線内ではパワーを持て余していたキハ58003は水を得た魚のように紀勢本線を快走しました

まだ残っていたキハ07
1976年まで使われていたキハ07がぼろぼろになりながらも残っていた。

藤並からまずは終点金屋口へ行きました。1976年に引退したキハ07形2両はまだ解体されず、ぼろぼろになりながらも残っていました。(翌83.3解体)右はラッシュ時用の増結車、キハ58001+58002です。乗客の減少と共にキハ58003単行で終日まかなえるようになり、使われなくなりました。

貨物列車健在
旅客列車の合間を縫って貨物列車が運行されていた。

旅客列車の合間を縫って貨物列車がやってきました。小さなDLがバックで短い貨車を牽くのはローカル私鉄ならではです。みかんを出荷するシーズンにはもう少し長い列車が走ったのでしょうか。
 このDB201号は1984年の貨物廃止に伴って廃車となりましたが、その後、ふるさと鉄道保存協会によって岡山県内の専用線から同型機が購入、復刻されています。その後の動向については把握していません。

みかん畑の中をゆく
線路際までみかんの木が植えられ、引きが取れる撮影ポイントが少ない。

休校日や日中の列車は両運転台のキハ58003の独り舞台でした。富士急行で新製された当時から両運転台であったことは有鉄にとってとても好都合なことでした。しかし、乗客は大幅に減少し、この車も持て余されるようになってしまいます。

ついに廃止へ
定期列車の合間や終列車後にも増発が行われた。

1994年に運行を開始したレールバスは樽見鉄道の出身。かつてのキハ07形も国鉄樽見線を走っていたものであったのは何かの縁かも知れません。私自身は関西勤務となって、その気になれば行きやすいところでしたが、やっと再訪したのは営業最終日の前日でした。

のどかな風景の中をゆく
のどかな風景の中をゆく小さなレールバス。

朝の1往復を撮影し、大混雑の列車に乗るのは遠慮してそのまま帰るつもりでしたが、増発が行われていて、場所を変えて撮影することができました。国鉄の第1次(廃止対象)地方交通線の基準が輸送密度1000人であったのに対し、30人を切るという桁違いの低さにあって、よくぞこの日まで鉄道が維持されたものです。


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